房玄齢
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書名 | 作者 | 巻数 | |
---|---|---|---|
1 | 史記 | 前漢・司馬遷 | 130 |
2 | 漢書 | 後漢・班固 | 100 |
3 | 後漢書 | 宋・范曄 | 120 |
4 | 三国志 | 晋・陳寿 | 65 |
5 | 晋書 | 唐・房玄齢他 | 130 |
6 | 宋書 | 南斉・沈約 | 100 |
7 | 南斉書 | 梁・蕭子顕 | 59 |
8 | 梁書 | 唐・姚思廉 | 56 |
9 | 陳書 | 唐・姚思廉 | 36 |
10 | 魏書 | 北斉・魏収 | 114 |
11 | 北斉書 | 唐・李百薬 | 50 |
12 | 周書 | 唐・令狐徳棻他 | 50 |
13 | 隋書 | 唐・魏徴、長孫無忌 | 85 |
14 | 南史 | 唐・李延寿 | 80 |
15 | 北史 | 唐・李延寿 | 100 |
16 | 旧唐書 | 後晋・劉昫他 | 200 |
17 | 新唐書 | 北宋・欧陽修、宋祁 | 225 |
18 | 旧五代史 | 北宋・薛居正他 | 150 |
19 | 新五代史 | 北宋・欧陽修 | 74 |
20 | 宋史 | 元・トクト(脱脱)他 | 496 |
21 | 遼史 | 元・トクト(脱脱)他 | 116 |
22 | 金史 | 元・トクト(脱脱)他 | 135 |
23 | 元史 | 明・宋濂他 | 210 |
24 | 明史 | 清・張廷玉等 | 332 |
房玄齢(ぼうげんれい 578年 - 648年)は中国唐代の政治家・歴史家。字は喬。杜如晦と共に太宗の謀臣として玄武門の変において太宗の権力奪取を助け、貞観の治の立役者の一人とされる。また正史編纂にも関わり、『北斉書』などを総監した。
[編集] 生涯
斉州臨淄(現在の山東省臨淄、淄は巛の下に田を置いてさんずい)の人。父の房彦謙(ぼうげんけん)は隋に仕えて司隸刺史(首都を含む州の長官)になった人で、『隋書』に列伝があり、山東省済南の東に碑が建てられている。
開皇十五年(595年)に科挙に及第。隋末の混乱時に唐に投じて、621年に李世民(太宗)の元の秦王府十八学士(当時の秦王である李世民の下の学士たち)の筆頭とされた。
高祖李淵が統一を果たして以後、優秀な人材の確保に努め、貞観の治のもう一人の立役者である杜如梅を見出し、太宗に推挙もおこなっている。建国間もない唐の王朝で皇太子・建成と世民の間で継承争いがおきると、房玄齢と杜如晦はその謀略の才を建成側に恐れられ、讒言を受けて秦王府への立ち入りを禁じられた。世民も建成に悟られないように策謀を進め、直前に二人に連絡を取り、玄武門の変を成功させて建成を殺して即位した。
630年、房玄齢は尚書左僕射(尚書省長官、筆頭宰相。)・監修国史とされ、、『北斉書』・『梁書』・『陳書』・『隋書』・『周書』の編纂を総監し、636年に完成させた。また褚遂良らと共に『晋書』を撰した。
晩年は病気がちになり、太子太傅とされ、648年に死去した。死後、太尉・并州都督を追贈され、遺体も昭陵に陪葬された。
息子の遺愛は玄齢の死後、中郎将となった。後に太宗の娘・高陽公主を娶り、太宗死後に汴州刺史となった。しかし高陽公主の傲慢さから謀反の疑惑をかけられる。これを取り調べた長孫無忌は「呉王・李恪がこの謀反に関わっていると証言すれば助けてやる」と暗に匂わして、偽りの証拠を作って李恪を誅殺し、同時に遺愛も誅殺された。
[編集] 評価
房玄齢は杜如晦・魏徴らと共に唐代でも最高の政治家の一人として名高い。貞観の治を記録したとされる『貞観政要』にも太宗の諮問に答える人間として数多く登場する。
中でも太宗が「創業と守文、どちらが難しいか?」(王朝を作るのと、それを守るのとどちらが難しいか)と問われたときの問答が有名である。房玄齢はこれに対して、「天下乱れ群雄競い起こる。攻め破りて降し、戦い勝ちて乃ち尅つ。此れに由りて言えば、草創を難しとなす」と答え、魏徴は守文が難しいと答えた逸話が有名である。