日本海海戦
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日本海海戦 | |
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連合艦隊旗艦三笠ブリッジで指揮をとる東郷平八郎大将 |
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戦争: 日露戦争 | |
年月日: 1905年5月27日 - 28日 | |
場所: 対馬海峡 | |
結果: 日本の完勝 | |
交戦勢力 | |
日本 | ロシア |
指揮官 | |
東郷平八郎大将 | ロジェストヴェンスキー中将 |
戦力 | |
戦艦4、装甲巡洋艦8、巡洋艦15他 | 戦艦8、海防戦艦3、装甲巡洋艦3、巡洋艦6他 |
損害 | |
水雷艇3沈没、戦死117、戦傷583 | 21隻沈没、戦死4830 |
日本海海戦(にほんかいかいせん、1905年5月27日 - 5月28日)は、日露戦争中に対馬沖を戦場として、日本の連合艦隊とロシア帝国のバルチック艦隊(バルト海艦隊)との間で行われた海戦である。日本以外では、「対馬海戦」と呼ばれている。蒸気船からなる主力艦隊同士が正面から激突したものとしては史上初の海戦である。
この海戦でロシア艦隊は戦力の大半を失い文字通り全滅となった一方、日本側の損失は軽微で、「海戦史上極めてまれな完勝・圧勝・ワンサイドゲーム」となった。当時後進国と見られていた日本の勝利は世界を驚かせ、ポーツマス講和会議への道を開くことになる。
目次 |
[編集] 背景
ロシアは日露戦争時に日本海軍の3倍近い海軍力を有していながら、艦隊を各方面に分割していた事ため、対日戦に行使できるのは旅順とウラジオストクを拠点とする太平洋艦隊(正式には第一太平洋艦隊という。新鋭戦艦7隻と装甲巡洋艦4隻が主力)のみであり、日本艦隊に対してやや劣勢であった。ロシア海軍首脳部は太平洋艦隊のみでは日本艦隊に対抗できないと判断し、バルト海艦隊からロジェストヴェンスキー提督率いるバルチック艦隊(正式名称:第二太平洋艦隊。新鋭戦艦5隻と旧式戦艦2隻、旧式装甲巡洋艦1隻が主力)を増派することを決定した。派遣の目的は第一太平洋艦隊を支援して日本に対して圧力を加えることで、あくまで旅順港と第一太平洋艦隊の健在が前提であった(第二太平洋艦隊副司令官フェリケルザム少将は、航海中病死、後任は任命されず)。
当時、石炭補給が常に必要となる蒸気船からなる主力艦隊を欧州から東アジアまで回航するのは前代未聞であり、彼らは多大な困難を経験することになる。加えて、経路にはロシアの同盟国であるフランスやドイツの植民地が点在するものの、日本とその同盟国であるイギリスは中立を犯してロシア艦隊を支援しないように両国に常に圧力をかけており、このため補給は主にチャーターしたドイツ商船隊に頼らざるをえず、途中の港での整備修理など望むべくもない状況であった。これに加えて、北海を航行中にイギリスの漁船を日本の水雷艇と誤認して攻撃し、乗組員を殺傷したドッガーバンク事件によってイギリスの世論は更に反露親日へ傾き、イギリスは途中艦隊を派遣して示威行動を行ってバルチック艦隊を挑発するほどであった(この事件はフランスの仲介によってロシアが補償することとなって解決した)。欧州から東アジアへの最短航路はスエズ運河経由であるが、スエズ運河は日本の同盟国であるイギリスが支配していたため万が一のサボタージュを恐れたことと、ボロディノ級戦艦などは喫水が深いためスエズ運河の通行が出来ないなどの理由から、第二太平洋艦隊の主力はアフリカ大陸南端の喜望峰を回り、フェリケルザム提督の率いる別働隊はスエズ運河経由に別れ、両部隊はマダガスカル島のノシべ港で合流した。
このころ、最終目的地である旅順は陥落し、第一太平洋艦隊は壊滅してしまい、このため今後の行動について決定されるまで艦隊はノシベで足止めを食うことになった。最終的にバルト海に残っている旧式艦をかき集めて第三太平洋艦隊(司令官ニコライ・ネボガトフ提督。旧式戦艦1隻と海防艦3隻が主力)を増援として派遣することになったが、この低速で戦力として殆ど価値のない艦隊の派遣はロジェストヴェンスキーを絶望させた。旅順に代えてウラジオストクを目的地としてノシベを出港したが、この間の約半年の航海は困難を極め、士気は著しく低下した。第二・第三太平洋艦隊は翌1905年、仏領インドシナのカムラン湾で合流しウラジオストクを目指した。
一方、日本の連合艦隊は大陸で展開する陸軍部隊の支援と補給のための輸送路の安全の確保を戦略目標としていたが、当然予想されるロシアの増援艦隊が極東に到着する前に第一太平洋艦隊を撃滅することが必須であった。黄海海戦では旅順艦隊を撃滅することはできなかったものの旗艦ツェザレヴィッチを大破させ、中国の港に逃げ込んで武装解除させるなど大きな戦果を上げ、蔚山沖海戦でウラジオストク駐留艦隊(副)を事実上戦闘不能状態に追い込み、最終的には二百三高地の制圧による砲撃によって旅順艦隊の残りを撃滅することと、旅順自体を陥落させることでこれを達成、以後はバルチック艦隊の迎撃のみに専念できるようになった。
しかしここでロシア艦隊をどこで捕捉するかが問題となる。ウラジオストクへの航路としては対馬海峡、津軽海峡または宗谷海峡経由が想定されたが、すべてに戦力を分派すれば各個撃破されかねず、いずれか一つに賭けざるを得ない。ここで首脳部はロシア艦隊が最短航路である対馬海峡を通過すると判断していた。近辺に警戒網を張りめぐらして発見の報を待った。しかし、5月14日に仏印を出港し、19日にバシー海峡を通過したという情報の後、消息が途絶えた。これにより、ロシア艦隊の太平洋回航も考えざるを得なかった。実際は長時間演習や石炭積み込みに時間を取られ、さらには一隻の機関不調などで遅延していた。むろん日本側は知る術はなかった。大本営と連合艦隊は協議を重ねたが、次第に焦り始めていた。24日に至り東郷は大本営に対し北海道への移動をほのめかす電報を送っていた。大本営は慎重を期す旨の返電を送った。東郷は26日正午までに移動すると返電を重ねた。東郷と連合艦隊の焦りは極限に達していた。そこへ吉報が飛び込んで来た。ロシア艦隊随伴の石炭運搬船6隻が上海に25日夕方に入港して来たという情報が26日午前零時過ぎに、大本営に飛び込んで来たのだ。運搬船を切り離したのは航続距離の長い太平洋ルートを通らないという証明でもあった。ロシア艦隊の大失態である。もし、運搬船の上海入港が一日遅れていたら歴史は大きく変わっていただろう。また5月23日に奥浜牛という那覇の帆船乗りの青年に発見されていた。ロシア艦隊は彼を視認していたが、独特の長髪ゆえに中国人と決めてかかり捕捉しなかった。3日後、彼は宮古島の漲水港に26日午前10時頃に着き、駐在警察官とともに役場に駆け込んだ。宮古島は大騒動になった。島の重役・長老達は会議の結果、漁師達を石垣島に使いに出す事となり、漁師5人を選抜した。連絡は信濃丸が数時間早かったが、漁師達は15時間、170キロを櫂を必死に漕いだ。漕ぎ続けて石垣島の東海岸に着いた。30キロの山道を歩き八重山郵便局に5月27日午前4時頃飛び込んだ(垣花善・垣花清・与那覇松・与那覇蒲・与那覇蒲(同姓同名)=久松五勇士)局員は宮古島島司(島長)からの文書を垣花善から受け取った。電信を那覇の郵便局本局へ打ち、そこから沖縄県庁を経由し大本営に伝えられた。こうして連合艦隊は落ち着きを取り戻しロシア艦隊の到着を待ったのである。
[編集] 経過
[編集] 5月27日
- 04:45 - 連合艦隊特務艦隊 仮装巡洋艦 信濃丸、九州西方海域にてバルチック艦隊発見の第一報を打電。艦長成川揆大佐が病院船アリヨールを確認。(203号地点=予め碁盤の目のように、地点を記していた。)
- 05:05 - 鎮海湾に待機中の連合艦隊全艦艇に出港命令
- 連合艦隊、大本営に向け出動の打電「敵艦隊見ゆとの警報に接し連合艦隊は直ちに出動、これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」(海が荒れて計画していた連繋機雷作戦が行えないので、砲戦主体による戦闘を行うの意ともいわれる)
- 11:42 - 連合艦隊第五・第六・第七戦隊、沖ノ島沖でバルチック艦隊に接近
- 13:39 - 連合艦隊主力(第一・第二戦隊)、バルチック艦隊を視認、戦闘開始命令(戦闘旗掲揚)
- 13:55 - 両艦隊の距離12,000mまで接近
- 14:02 - 連合艦隊(針路南西)とバルチック艦隊(針路北東)、反航路(平行すれ違い)上につく
- 14:05 - 距離8,000m、連合艦隊、取舵一杯、敵前大回頭を開始(丁字戦法開始)
- 14:08 - 距離7,000m、連合艦隊先頭艦(三笠)回頭完了、バルチック艦隊、砲撃開始
- 14:10 - 距離6,000m、三笠砲撃開始
- 14:12 - 距離5,500m、連合艦隊三笠被弾数25発に達する
- 14:20 - 距離4,600m、連合艦隊全艦回頭完了、バルチック艦隊の先頭艦(スウォーロフ)に対して、一斉砲撃開始
- 14:35 - 連合艦隊、東南東に転針し、バルチック艦隊の進路を完全に遮蔽(丁字完成)
- 14:43 - 戦艦オスラビア、続いてスウォーロフで火災発生、戦列から離脱
- 14:50 - 戦艦アレクサンドルIII、北方へ転針、戦線離脱を図る
- 14:58 - 連合艦隊第一戦隊、北東へ一斉回頭
- 15:05 - 連合艦隊第一戦隊、針路を北西とし、第二戦隊と共にバルチック艦隊を挟撃(乙字戦法)
- 15:10 - 戦艦オスラビア撃沈、旗艦スウォーロフ逃走
- ・バルチック艦隊の隊列混乱し、勝敗ほぼ決する
- 17:28 - 連合艦隊、北に転針、敵を追撃
- 18:00 - 両艦隊、再び距離6,300mまで接近、砲撃再開
- 19:03 - 戦艦アレクサンドルIII撃沈
- 19:20 - 戦艦スウォーロフ、ボロディノ、シソイ・ウェリーキー撃沈(第一・第二戦艦群壊滅)
[編集] 5月28日
- 09:30 - 連合艦隊、鬱陵島南方でバルチック艦隊第三戦艦群再視認、追撃開始
- 10:34 - バルチック艦隊第三戦艦群旗艦ニコライI、降伏旗を掲揚(機関を停止せず。降伏不受理。)
- 10:53 - 機関停止し、降伏受理(海戦終結)
他方、ロジェストヴェンスキーは旗艦から負傷を負い5月27日17:30に駆逐艦ブルヌイに移乗した。更に艦尾に砲弾を受け破損の激しいブルヌイから同じく駆逐艦べドゥイに再び移乗した。同艦と随行の駆逐艦グロズヌイで逃亡中、駆逐艦 漣(さざなみ)と陽炎に発見され5月28日16:45に砲撃を開始され、遂に捕らえられた。べドゥイはロジェストヴェンスキーと幕僚ごと佐世保に曳航された。
[編集] 結果
ロシア艦隊は戦艦、巡洋艦の殆どが沈没もしくは拿捕されるなど戦力の大半をこの海戦で失った。一方、日本側の損失は水雷艇3隻沈没と軽微であり、大艦隊同士が真っ向からぶつかり合う海戦では考えられない、海戦史上稀に見る空前絶後な一方的勝利となった。(主力艦隊同士が真っ正面からぶつかり合った海戦としては第一次世界大戦における英国とドイツのユトランド沖海戦が挙げられるが、双方とも甚大な被害を被った) この勝利は世界を驚かせ、ポーツマス講和会議への道を開くことになる。
両艦隊の損害
- 艦船
- 日 本:沈没3隻(水雷艇3)
- ロシア:被撃沈16隻(戦艦6、他10)、自沈5隻、被拿捕6隻、中立国へ逃亡6隻、 自国港へ到達3隻(巡洋艦アルマーズ・駆逐艦ブラーウイ・グローズヌイ)
- 兵員
- 日 本:戦死117名、戦傷583名
- ロシア:戦死4830名、捕虜6106名(ロジェストヴェンスキー、ネボガトフ両提督含む)
ロジェストヴェンスキーは広島県呉市の海軍病院に収容され、東郷の見舞いを受けた。
[編集] 戦法
[編集] 丁字戦法 (T字戦法)
縦隊で一定方向に進む敵艦隊に対して、その正面を側面方向から横切って航路を遮りつつ丁の字(あるいはT字)に似た体勢を形成した上で、敵先頭艦に対して全艦艇から集中攻撃を行い、順々に撃沈してゆくという戦法。
軍艦は前後に細長い形をしているので、船首・船尾よりも、船側に並んでいる砲の数が多く、この形で接近できれば圧倒的に有利な体勢になる。この戦法自体は海戦の定石として古くから知られていたが、敵艦隊もそのような形を避けようとするため、実際に丁字を描くのは不可能に近いと言われていた。
東郷平八郎司令長官と秋山真之参謀は試行錯誤の末、一つの結論に達した。それが敵前逐次回頭(敵前大回頭)という敵の盲点を付く事によって、強引に丁の字を形成する方法だった。
日本海海戦の実際の進展は、
- 敵艦隊に対して平行にすれ違う航路(反航)をとる
- すれ違い直前で敵前回頭を行う
- 自艦隊の足の速さを頼りに敵艦隊の先頭に対して斜め後方から敵進路を遮蔽する(このため、実際には「丁」より「イ」に近い形になる)
というものだった。
当時の海戦の常識から見れば、敵前での回頭(しかも2分あまりを費やしての160度もの回頭)は全くの暴挙であり、日本海海戦でそれを目の当たりにしたロシア艦隊の乗組員は「東郷は狂ったのかと思った」と証言している。実際、旗艦であり先頭艦であった三笠の被弾数48発の内、実に40発が大回頭時に無防備になった右舷に集中しており、敵前回頭が如何に危険な行為かを示している(帰還時の三笠は、突き刺さった砲弾の重みだけで、かなり右舷側に傾いていたという)。
東郷方式の丁字戦法は、一つ間違えば自滅行為にもなってしまう諸刃の剣であり、日本海海戦における丁字戦法の成功は、有効射程範囲のギリギリの所を見極めて、見事な「トーゴー・ターン」を決めた東郷の采配に負うところが大きいだろう。
[編集] 大日本帝国海軍 連合艦隊編制表(日本海海戦時)
連合艦隊司令長官: 東郷平八郎(大将) | ||
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第一戦隊(旗艦:日進)
司令官:三須宗太郎(少将) 第三戦隊(旗艦:笠置) 司令官:出羽重遠(中将)
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第二戦隊(旗艦:磐手)
司令官:島村速雄(少将)
第四戦隊(旗艦:浪速) 司令官:瓜生外吉(中将)
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第五戦隊(旗艦:橋立)
司令官:武富邦鼎(少将)
第六戦隊(旗艦:須磨) 司令官:東郷正道(少将)
第七戦隊(旗艦:扶桑) 司令官:東郷正道(少将)
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[編集] 新技術
連合艦隊は砲弾の火薬に下瀬火薬を導入した。これは当時の主流であった黒色火薬より威力が優れ、戦闘を優位にすすめる事が出来たと推測される。また信管には作動確実で鋭敏な伊集院信管が使用された。
グリエルモ・マルコーニが1894年に発明したばかりの無線電信技術を用い1903年に制式採用された三六式無線電信機が、バルチック艦隊を発見した際の連絡に役に立った。
[編集] エピソード
- 日本海海戦の戦闘中、東郷はZ旗を掲げたが、この後日本海軍が重要な海戦においてZ旗を掲げるという先例となり、5月27日は海軍記念日に制定された。この海軍記念日は戦後廃止されたが、現在でも日本海海戦記念式典が毎年開催されている。
- 秋山参謀は、海戦の様子を事前に幻で見たと後に語っているが、当時の行動記録からは裏付けられない。
- 有名な「皇国ノ興廃コノ一戦ニアリ、各員一層奮励努力セヨ」の言葉は戦いの直前に東郷が考案発表したものではない。各艦に配布されていた信号簿ではZ旗に対応する文言として以前から記載されていた。考案者は艦隊参謀をはじめ諸説あるが東郷でないことは確実である。
- 後の連合艦隊司令長官山本五十六(当時は高野姓)は少尉候補生として巡洋艦「日進」に乗り組んで海戦に参加したが、戦闘中砲塔の爆発により重傷を負い、左手の指二本と右足の肉塊六寸を削ぎ取られた。
- 海戦当日14:50ごろ旗艦「スワロフ」が突然北へ回頭した。東郷、秋山たち「三笠」の首脳は、北へ逃げようとしていると判断した。ところが第二艦隊「出雲」の上村、佐藤は「スワロフ」の機関が故障をしたと即座に判断した。第二艦隊はそのままロシア艦隊に突き進んで「アレクサンドル3世」「ボロジノ」を炎上させた。もし第二艦隊も「三笠」の首脳と同じ判断をしていたら黄海海戦と同じようにロシア艦隊を取り逃がしていた可能性もある。
- 日本海海戦最後の生き残りは昭和57年5月27日に亡くなった。
[編集] 影響
[編集] 日本海海戦を描いた映画・ドラマ等
- 映画
- 明治天皇と日露大戦争(1957年、新東宝)
- 日本海大海戦(1969年、東宝)
- 日本海大海戦・海ゆかば(1983年、東映)
- 小説
[編集] 日本海海戦軍歌
日本海海戦を題材とした同名軍歌は四つあり、そのうち二つの歌詞は下記参照。 (海軍省の消滅により著作権消失)
日本海海戦(文部省制定、小学唱歌、第五小学校童謡) 一 敵艦見えたり近づきたり 皇国の興廃ただこの一挙 各員奮励努力せよと 旗艦のほばしら信号揚る みそらは晴るれど風立ちて 対馬の沖に波高し 二 主力艦隊前を抑え 巡洋艦隊後に迫り 袋の鼠と囲み撃てば 見る見る敵艦乱れ散るを 水雷挺隊駆逐隊 逃しはせじと追いて撃つ 三 東天赤らみ夜霧晴れて 旭日輝く日本海上 今はや遁るるすべもなくて 撃たれて沈むも降るもあり 敵国艦隊全滅す 帝国万歳万万歳
日本海海戦(海路一万五千より)
一、 海路一万五千余浬 万苦を忍び東洋に 最後の勝敗決せんと 寄せ来し敵こそ健気なれ
二、 時維(こ)れ三十八年の 狭霧(さぎり)も深き五月末(さつきすえ) 敵艦見ゆとの警報に 勇み立ちたる我が艦隊
三、 早くも根拠地後にして 旌旗(せいき)堂々荒波を 蹴立てて進む日本海 頃しも午後の一時半
四、 霧の絶間(たえま)を見渡せば 敵艦合せて約四十(しじゅう) 二列の縦陣作りつつ 対馬の沖にさしかかる
五、 戦機今やと待つ程に 旗艦に揚がれる信号は 「皇国(みくに)の興廃この一挙 各員奮励努力せよ」
六、 千載不朽(せんざいふきゅう)の命令に 全軍深く感激し 一死奉公この時と 士気旺盛に天を衝(つ)く
七、 第一第二戦隊は 敵の行手を押さえつつ その他の戦隊後より 敵陣近く追い迫る
八、 敵の先頭「スウォーロフ」の 第一弾を初めとし 彼我の打ち出す砲声に 天地も崩るる斗(ばか)りなり
九、 水柱白く立ちのぼり 爆煙黒くみなぎりて 戦(たたかい)愈々(いよいよ)たけなわに 両軍死傷数知れず
十、 されど鍛えに鍛えたる 吾が艦隊の鋭鋒に 敵の数艦は沈没し 陣形乱れて四分五裂(しぶごれつ)
十一、 いつしか日は暮れ水雷の 激しき攻撃絶間なく またも数多(あまた)の敵艦は 底の藻屑と消えうせぬ
十二、 明るく晨(あした)の晴天に 敵を索(もと)めて行き行けば 鬱稜島(うつりょうとう)のほとりにて 白旗掲げし艦(ふね)四隻
十三、 副将ここに降を乞い 主将は我に捕らわれて 古今の歴史に例(ためし)なき 大戦功を収めけり
十四、 昔は元軍(げんぐん)十余万 筑紫の海に沈めたる 祖先に勝る忠勇を 示すも君の大御陵威(おおみいつ)
十五、 国の光を加えたる 我が海軍の誉れこそ 千代に八千代に曇(くもり)なき 朝日と共に輝かめ
[編集] 関連項目
[編集] 関連書籍
- マヌエル・ドメック ガルシア 著 津島勝二 訳 『日本海海戦から100年 アルゼンチン海軍観戦武官の証言』 鷹書房弓プレス ISBN 4803404895
- 吉村昭 『海の史劇』 新潮文庫 ISBN 4101117101
- 野村実 『日本海海戦の真実』 講談社現代新書 ISBN 4061494619
- 半藤一利、戸高一成 『日本海海戦 かく勝てり』 PHP研究所 ISBN 4569633374
- 木村勲 『日本海海戦とメディア 秋山真之神話批判』 講談社選書メチエ ISBN 4062583623
- 別宮暖朗 『「坂の上の雲」では分からない日本海海戦 なぜ日本はロシアに勝利できたか』 並木書房 ISBN 4890631844
- 菊田慎典 『「坂の上の雲」の真実』 光人社 ISBN 4769811810
- 近現代史編纂会 『面白いほどよくわかる日露戦争』 日本文芸社 ISBN 4537252081