林献堂
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林献堂(りんけんどう、1881年12月3日 - 1956年9月8日)、名を朝琛、号を灌園と称し、日本統治時代の台湾に於ける政治家。「台湾議会之父」の異名を有す。
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[編集] 家族
台湾の名家霧峰林家に生まれ、父親の林文欽は清末の挙人、林朝棟の同輩である。林献堂は霧峰参事、区長(1902年)を歴任し、1905年には紳章を授与されている。
[編集] 活動初期
- 1907年、日本奈良に旅行した際、中国維新運動の指導者梁啓超と面会しアイルランドの自治闘争の影響を強く受ける。
- 1910年、詩社櫟社に参加。
- 1913年には台湾北部、中部の人々と共に総督府に対し台湾人の出資による中学校設立を請願、1915年5月、公立台中中学(現在の台中一中の前身)を創校。
- 1914年3月には板垣退助を台湾に招待、12月には“同化会”(1915年解散)を設立する。
- 1919年には蔡恵如等と共に“啓発会”を設立し、翌年東京にて“新民会”と改称、林献堂は会長に就任。
- 1921年1月より林献堂は日本の国会に対し、台湾議会設立の要望を提出し、第1次台湾議会設置請願運動を展開する。同年10月、台湾文化協会を設立させる。
[編集] 台湾文化協会時期
- 1921年,台北大稲埕で台湾文化協会を設立。中国国民党の制度に倣い林献堂を総理に、蒋渭水を専務理事に、林幼春等を常務理事に選出。
- 台湾人の民族意識向上のため、台湾文化協会は1923年より『台湾民報』を創刊、林献堂が社長に就任。
- 日本人資本に独占されていた銀行、信託、保険等金融業に対し、2年の準備期間を経て「大東信託株式会社」(1927年2月成立)を開設。林献堂を董事長に、陳炘を総経理に選出。
- 1927年1月、台湾文化協会が分裂、左派色の強くなった文化協会を退会。
- 1927年7月、台湾民衆党を結党。
- 1930年、台湾地方自治聯盟を結成し顧問に就任。
[編集] 戦後
- 1946年5月、第1回台湾省参議会議員選挙に当選。
- 1946年10月下旬,台湾を訪問した蒋介石と面会・
- 1947年2月28日、二二八事件が発生。“台省漢奸”と称されるも難を逃れる。
- 1949年9月、病気を理由に台湾を離れ日本に移る
- 1956年、東京久我山において客死。享年76。
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