明石城
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明石城 | |
通称 |
喜春城、錦江城 |
城郭構造 |
連郭梯郭混合式平山城 |
天守構造 |
なし |
築城主 |
小笠原忠真 |
築城年 |
1619年 |
主な改修者 |
松平直常 |
主な城主 |
松平氏(越前系) |
廃城年 |
1874年 |
遺構 |
現存櫓、石垣、堀、復元塀、移築門 |
位置 |
明石城(あかしじょう)は日本の城。所在地は兵庫県明石市。旧明石藩の政庁と藩主の居所が置かれた。別名、喜春城(きはるじょう、きしゅんじょう)、錦江城(きんこうじょう)とも呼ばれる。
目次 |
[編集] 概要
JR明石駅北側に位置し、駅ホームより間近に望める。縄張りは連郭梯郭混合式の平山城(当時の「赤松山」を中心とした)である。本丸を中心に配し、東側に二の丸、その東に東の丸が配され、南側に三の丸、西側には稲荷郭が設けられた。本丸には天守台は築かれたが天守は建設されず、四隅に巽櫓、坤櫓、乾櫓、艮櫓が建設された。そのうちの南側の2棟すなわち巽櫓(たつみやぐら、南東側)、坤櫓(ひつじさるやぐら、南西側)が現存し国の重要文化財に指定されている。中堀の内側は兵庫県立明石公園として整備され、日本さくら名所100選に指定されている。西側は明石川を自然の外堀とし、南側は運河を掘って港を兼ねた外堀(現在の明石港)とした。
櫓や石垣は平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災で被害を受けたが全面修復された。
毎週土日には月替わりで坤櫓、巽櫓の1階内部を公開している。なお、小雨を含む雨天は公開中止となる。
[編集] 沿革
元和3年(1617年)信州松本城主より明石藩主となった小笠原忠真は、明石城の西方、明石川河口西岸にあった船上城に入城した。しかし船上城は一国一城令により大半の建造物は破却され陣屋に近いものとなっていた。譜代大名たる小笠原氏10万石の居城としてふさわしい城郭を建設するよう、同年に2代将軍徳川秀忠より築城命令がおりた。当時の「赤松山」の地の利を利用し、伏見城、三木城、船上城の遺材を使用し着工された。坤櫓は伏見城、巽櫓は船上城の遺材が使用されたと伝えられている。着工から3年後の元和5年(1619年)概ね完成した。このとき天守閣は、台石まで積まれたが、建てられなかった。
「赤松山(明石城)」の南側一帯の沼地を埋め立てて都市計画をした城下町は宮本武蔵の設計といわれており、現在は明石市の中心地となっている。なお、忠真は寛永9年(1632年)豊前国小倉藩に転封となった。
以後、譜代大名の居城として5家が入れ替わり入城した。寛永10年(1633年)松平(戸田)康直が7万石で入城。松平氏が寛永16年(1639年)に美濃国加納藩に転封となると、大久保忠職が7万石で入城。慶安2年(1649年)忠職は肥前国唐津藩に転封、松平(藤井)忠国が7万石で入城。延宝7年(1679年)忠国の子、信之は大和国郡山藩に転封となる。代わって、本多政利が6万石で入城するが、僅か3年後の天和2年(1682年)には苛政を責められ陸奥国岩瀬藩に1万石に減知転封となった。
僅か50年の間に城主が目まぐるしく入れ替わったが、本多氏転封の後、松平直明が6万石で入城し、以後、明治維新まで親藩の松平氏の居城となった。各城の遺材を集めて築城したせいか、老朽化が早く2代藩主松平直常の元文4年(1739年)には大修築が行われた。
明治7年(1874年)廃城令により廃城となる。明治14年(1881年)北東の艮櫓が、明治34年(1901年)には北西の乾櫓が、それぞれ解体された。明治16年(1883年)明石町内の有志により整備され明石公園となる。明治31年(1898年)皇室の御料地となる。大正7年(1918年)4月15日兵庫県が御料地を借り受け県立明石公園として開園した。
昭和32年(1957年)6月18日巽櫓・坤櫓が国の重要文化財に指定された。
平成7年(1995年)阪神・淡路大震災により大きな被害を受ける。平成11年(1999年)修復が完了。同時に巽櫓と坤櫓を繋ぐ塀が復元された。平成16年(2004年)9月30日城跡は国の史跡に指定されている。
[編集] 周辺情報
- 織田家長屋門(元船上城長屋門。明石市指定文化財)家老職、織田家一族の末裔である。尾張藩家老も一族、一族には天童、柏原藩藩主や旗本を勤めた者もいる。
- 月照寺山門(伏見城廃城時に伏見城薬医門を明石城切手門へ移築、さらに明治廃城時に月照寺山門へ移築。明石市指定文化財)