本因坊秀策
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本因坊 秀策(ほんいんぼう しゅうさく、文政12年5月5日(1829年6月6日) - 文久2年8月10日(1862年9月3日))は、江戸時代の棋士。備後国因島(現広島県尾道市)出身で俗姓は桑原。幼名は虎次郎。父桑原輪三。20歳で第14世本因坊跡目となるが、跡を継ぐことなく34歳で病死した。上手。
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[編集] 経歴
1836年、本因坊丈和門下に入門。その打ち振りを見た丈和が「是れ正に百五十年来の碁豪にして、我が門風、これより大いに揚がらん」と絶賛したと伝えられる。百五十年来とは道策の事を指す。
1846年、井上幻庵因碩と数度の対局を行い、その中の一局は「耳赤の一局(みみあかのいっきょく)」と呼ばれ、古今の名局と名高い。
当時、一流の打ち手であった幻庵因碩に定先で打ち勝った事を機に丈和と秀和は秀策を本因坊跡目とする運動を始める。しかし秀策は父桑原輪三の主君でもある備後三原城主浅野甲斐守の家臣と言う扱いになっていたため、浅野侯に対する忠誠心からこれを頑なに拒否。囲碁家元筆頭の本因坊家の跡目を拒否する事などは前代未聞であった。
また師秀和との対局で先で打っていた所、秀策の大幅な勝ち越しになったため秀和が「手合いを改めよう」と言った所、「師匠に黒を持たせるわけにはいきません」と答えたと言う(先の次は先相先となり三局に1回は上手が黒を持つ事になる)。
1848年、正式に本因坊跡目となった後、御城碁に出仕し、それ以後19戦19勝無敗の大記録を作った。秀策最強説の有力な根拠がこれである。
秀策の無敵を支えたのが秀策流と呼ばれる布石法である(次項)。この布石は先番必勝と言われ、秀策が勝敗を聞かれた時、「先番でした。」と答えたと言う逸話が残っている。ただしこの話は謙虚な秀策の性格とはそぐわないため、「先番でしたので、なんとか勝つことができました」の前半部分だけが一人歩きしてしまったとも言われる。
ペリーの来航と共に江戸にコレラが大流行し、本因坊家内でもコレラ患者が続出した。秀策は秀和が止めるのも聞かず患者の看病に当たり、当人が感染しそのまま死去した。
棋力のみならず、極めて人格に優れ、本因坊道策(前聖)と並び棋聖・碁聖(後聖)と称される。歴史に燦然と輝く業績を残し、ファンに与えた影響は多大である。
[編集] 秀策流
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黒1・3・5の手で向きの異なる小目を連打する布石。多くの場合7手目★のコスミまでを「秀策流」と称する。この手は秀策の創案ではないが、大いに活用して好成績を挙げたところから「秀策のコスミ」と呼ばれる。コミのない先番でがっちり勝とうとする戦略であり、コミ碁の現代ではやや堅すぎる面はあるが、7手目をコスミからハサミに変えるなどアレンジを加えて現代でも時に打たれる布石である。
[編集] 耳赤の一局
弘化3年7月21日(1846年9月11日)於浪華天王寺屋辻忠二郎宅 八十九手打掛、同23日(13日) 於原才一郎宅 百四十一手打掛、同25日(15日)於中川順節碁会中之島紙屋亭 打終。桑原秀策 先番 井上(幻庵)因碩325手 黒半コウ勝ツグ 黒三目勝(棋譜では黒二目勝)。
「耳赤」の名前は、対局を横で見ていた一人(医師)が秀策の一手(黒127手目(10-11)。図の○の手)を見た時、「これは秀策の勝ちだ」と断定し、周りの者が何故?と聞いた所、「碁の内容はよく判らないが、先ほどの一手が打たれた時井上先生の耳が赤くなった。動揺し、自信を失った証拠であり、これでは勝ち目はないだろう」と言ったことに由来する。ここから図の秀策の手を耳赤の一手と呼ぶ。実際、この手を打つまでは井上の優位だったが、この手によって形勢は逆転にいたらなかったものの急接近していた。上辺の模様を拡大し、右辺の白の厚みを消し、下辺の弱石に間接的に助けを送り、左辺の打ち込みを狙う一石四鳥の手で、後世長く語り伝えられることになった妙手である。
[編集] 後世への影響
江戸時代までは棋聖と呼ばれていたのは道策と本因坊丈和の二人であったが、明治以降から秀策の人気が高まり、丈和に代わって秀策が棋聖と呼ばれるようになった。名人になった事は無いが、史上最強棋士の候補としてあげる声も多い。400局ほどの棋譜が秀策のものとして伝えられており、明治33年(1900年)に石谷広策によって『敲玉余韵』としてまとめられた。これを学ぶプロ棋士は多く、韓国の李昌鎬も若い頃から秀策の棋譜を熱心に並べ、「私は一生かけても秀策先生には及ばないだろう」と語っているのは有名である。
また、漫画『ヒカルの碁』では、主人公進藤ヒカルに取り憑いた幽霊藤原佐為が、ヒカルの以前取り憑いていた人物として登場する。このため同作品のヒットに伴う「囲碁ブーム」とともに子供たちにも「囲碁史上最強の人物」として親しまれることになった。