東千代之介
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東 千代之介(あずま ちよのすけ、1926年8月19日 - 2000年11月9日)は、日本の俳優・日本舞踊若菜流の家元。本名、若和田 孝之(わかわだ たかゆき)。
東京都出身。
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[編集] 略歴
長唄六代家元杵屋弥三郎の子。七代坂東三津五郎に師事して日本舞踊を学ぶ。暁星学園を経て東京藝術大学卒業。昭和29年(1954年)に東映に入社し、『雪之丞変化』でデビュー。端正な容貌と日本舞踊で鍛えたしなやかな身のこなしで人気を集め、中村錦之助、大川橋蔵らと共に東映時代劇の黄金期を支えたが、時代劇衰退に伴い東映が任侠路線に移行すると1965年に退社した。
その後は日本舞踊の家元としての活動が中心となり、多くの弟子を育てた。1966年、元宝塚女優千之赫子(ちの・かくこ)と結婚。1男1女を儲けたが、1985年に赫子と死別。1987年再婚。1991年次男誕生。
テレビ番組では『クイズ面白ゼミナール』に「東千代之介チーム」リーダーとして準レギュラー出演。『バトルフィーバーJ』、『機動刑事ジバン』、『京、ふたり』では演技も披露し、往年のファンを喜ばせた。
2000年11月9日左心不全、慢性腎不全のため死去。享年74。
[編集] 評価
歌舞伎の世界を捨てて映画俳優に転じた中村錦之助や大川橋蔵が、(俳優として売れなくなっても歌舞伎の世界へ)後戻りする事ができない為にハングリーであったのとは対照的に、千代之介は俳優が駄目でもいつでも日本舞踊に戻れるということで「欲がなかった」といわれている。昭和30年代後半になると主演から外れることも多くなり、後輩の里見浩太郎にさえ追い抜かれたと思われた。それでも東映は、オールスター映画では千代之介を錦之助や橋蔵と同格のキャスティングにする配慮を見せた。このころ共演することが多かった大川恵子とはロマンスの噂が立てられたが、彼女は雑誌のインタビューで「(千代之介は)男として食い足りない」と酷評している。
このようにスターとしての俳優間の競争では覇気に欠けたが、その反面、芸能界では良く見られる金銭や男女関係といった欲がらみのスキャンダルやトラブルについてはまるで無縁で、常に無欲で腰が低く、子供たちやファンへの対応も親切丁寧で、清廉潔白なイメージを生涯保ち続けた。スター役者にとっては華やかで艶福な私生活も芸風を磨く内であるという風潮も根強く、また芸能人のその様な行動への許容度が現在よりもかなり高かった当時の芸能界の体質を鑑みた場合、このクリーンさは特筆に値すべき事であり、この点ではまったくもって希有なスターと言える。
そのクリーンなイメージと、元々端正な顔だちと優美な挙措により娯楽作品でこそより映えるその姿から、東映としても安心して出演させられる俳優という印象があったからか、後年に至って大御所的な存在になっても東映の子供向け特撮ドラマに出演する事となり、主人公の若者たちを厳しくも優しく見守る重鎮的な役柄として、この様な作品であってもその存在感を発揮し続けた事は流石というべきものである。特に『バトルフィーバーJ』で演じた倉間鉄山将軍については、『スーパー戦隊シリーズ』黎明期の作品であるにもかかわらず、「演技力や表現力、存在感において、いまだシリーズ歴代作品の中でも最高の司令官」と評する者が、年季の入ったシリーズのファンの間では少なくない。
[編集] 出演
[編集] 映画
- 雪之丞変化(1954年)
- 新諸国物語・笛吹童子(1954年)
- 新諸国物語・紅孔雀(1954年)
- 蛇姫様(1954年)
- 赤穂浪士(1956年)
- 新諸国物語・七つの誓い(1957年)
- 水戸黄門(1957年)
- 暴れん坊兄弟(1960年)
- 金田一耕助の冒険(1979年)
[編集] テレビドラマ
- バトルフィーバーJ(1979年 - 1980年、テレビ朝日)
- 機動刑事ジバン(1989年 - 1990年、テレビ朝日)
- 京、ふたり(1990年 - 1991年、NHK朝の連続テレビ小説)
[編集] クイズ・バラエティ
- クイズ面白ゼミナール(1981年 - 1988年、NHK)
[編集] 受賞歴
- 1996年(平成8年) - 第6回日本映画批評家大賞 ゴールデン・グローリー賞
[編集] 参考図書
- 『東千代之介―東映チャンバラ黄金時代』「東千代之介を愛する会」編、ワイズ出版、1998年刊、ISBN 4948735817
- 存命中にインタビュー・刊行された。