衛星国
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衛星国(えいせいこく)は軍事的・政治的な大国の周辺にあって外交や、内政に強い影響を受けている国のこと。傀儡国家と類義。もともとは、モンゴル学者オウエン・ラティモアが、ソ連に従属するモンゴルの地位を表現するために用いた用語で、後に、1940年代後半以降の冷戦期において、自国の外交、内政における意思決定について強くソビエト連邦の影響を強く受けた「東欧」諸国をはじめとする社会主義陣営の諸国を指して使われるようになった。これに関してはいわばソ連邦を宗主国とし、社会主義陣営の諸国を属国とみなしたものであると言える。ソ連による覇権の下に行われた。(第二次世界大戦中にナチス・ドイツの勢力圏内にあった国々に対しても使用されることがある。この件については「傀儡政権」の項目に譲る。ナポレオン戦争時のフランスの衛星国家とよばれる国についてはフランス革命期の衛星共和国を参照。)
この場合の「衛星国」は一時的に呼ばれたものも含めるとドイツ民主共和国(東ドイツ)、チェコスロバキア社会主義連邦共和国、ハンガリー人民共和国、ポーランド人民共和国、ブルガリア人民共和国、ユーゴスラビア人民連邦共和国、ルーマニア社会主義共和国、アルバニア人民共和国を指す(国名は全て当時のもの)。また、地域的には東欧でなく北アジアだが、政治的位置付けでは東欧諸国と類似しているモンゴル人民共和国も衛星国の一つとしてしばしば扱われる。
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[編集] 東欧の場合
[編集] 概略
第二次世界大戦末期においてイギリス首相ウィンストン・チャーチルとソ連の指導者ヨシフ・スターリンの間で会談があり、ヨーロッパにおける西側と東側の勢力範囲が決定され、上記8カ国はソ連の勢力圏と決められた。
ただしこれらの国々を一概に「衛星国」と言はえない向きもあり個々の事例については以下に記す。
[編集] ドイツ民主共和国
東ドイツは戦後ソ連の占領を受けたが、ベルリンの壁が構築されるまで、断続的に反ソ的な暴動が頻発していた。ソ連の影響下において安定するのはエーリッヒ・ホーネッカーが登場するのを待つことになる。東ドイツは常に西ドイツ(ドイツ連邦共和国)との関係が問題となり、東西ドイツ基本条約で西ドイツに東ドイツの存在を認めさせたのは1972年の事であった。また、ドイツは東西冷戦の最前線であり、東ドイツには大量のソ連軍が、西ドイツにはアメリカ軍などの北大西洋条約機構(NATO)軍が駐留していた。
そのため、東ドイツのドイツ社会主義統一党政権は、国家存続のためにソ連に対して常に忠実である必要が生じた。すなわち、東ドイツは東欧革命の発生までソ連の衛星国であり続けた。
[編集] チェコスロバキア社会主義連邦共和国
チェコスロバキアは第二次世界大戦前に議会制民主主義が機能していた国で、共産党も有力な議会内勢力の一つとして活動していた。戦後もしばらくの間、自由選挙によって選ばれた非共産党政権が政権を運営していた。当初はマーシャル・プランの受け入れを模索していたが、これはソ連の圧力によって撤回された。1948年に非共産党系の有力政治家を暗殺、処刑するなどして共産党が政権を手に入れると、チェコスロバキアはスターリン体制に服従し、ソ連の衛星国の一つとなった。
1968年に国内改革運動の「プラハの春」が起こると、ソ連を初めとするワルシャワ条約機構軍がチェコスロバキアに侵入し、この動きを圧殺した。その後は共産党の保守派が政権を維持し、ソ連の衛星国として存在し続けた。これは1989年にビロード革命で共産党政権が崩壊するまで変わらなかった。
[編集] ハンガリー人民共和国
ハンガリーでは1956年に反ソ暴動となるハンガリー動乱が勃発した。この動きもソ連及びワルシャワ条約機構軍の介入により圧殺された。体制は元に戻されたが、経済は比較的自由であった。1968年頃から西側の経済を緩やかにではあるが取り入れ、単なるソ連政府の傀儡ではなかった。1980年代には、国民はハンガリー社会主義労働者党の保守派、改革派のどちらかを選択出来る様になり、衛星国という概念は薄れていった。ポーランドの変革に刺激を受けるような形で改革派が実権を握り、ハンガリーは独自に民主化(西欧への帰還)への道を歩んでいったのである。
[編集] ポーランド人民共和国
ポーランドでは長年ロシア・ソ連との対立や抵抗が続き、第二次世界大戦でもロンドンの亡命政府や国内軍によるドイツへの組織的抵抗がソ連の支援を受けた共産党系の運動よりも活発だった。そのため、人民共和国成立後も国民の反ソ感情は強く、1956年、1970年、1980年と反ソ暴動、国内改革運動が活発になった。
ただしチェコスロバキアやハンガリーとは異なり、ポーランド統一労働者党の政府や、1980年の戒厳令で国家統治を党から事実上肩代わりしたヤルゼルスキなどのポーランド国軍は、混乱の自力収拾に成功してソ連やワルシャワ条約機構軍による介入を巧みにかわし、外交面ではソ連の要求へ忠実に応える一方で、国内の改革運動の要求をある程度受け入れることに努めた。この結果ポーランドではベルリンの壁崩壊以前に「東欧」では先陣を切って複数政党制による自由選挙を実施する事につながって来る。
[編集] ブルガリア人民共和国
ブルガリアは歴史的にロシアとの親和性が強く、その独立にも深く関わっていたため、第二次世界大戦におけるソ連軍(赤軍)の侵攻もドイツからの解放と受け止める雰囲気が強かった。そのため、比較的素直にソ連による支配を受け入れ、「ソビエト連邦の第16番目の加盟共和国」とも揶揄されるほどの関係を築いた(同様の比喩はモンゴルに対しても見られる)。この緊密な状態は両国の指導者が交代しても続き、1989年の民主化運動で共産党政権が退場するまで変わらなかった。
[編集] ユーゴスラビア人民連邦共和国
ユーゴスラビアは東欧で唯一ナチスからの自力解放に成功し、そのパルティザンの指導者だったヨシップ・ブロズ・チトーが独自の社会主義路線の建設を行った。又マーシャル・プランも積極的に受け入れた。これはソ連との反目を引き起こし1960年代までユーゴスラビアとソ連は断続的に国交断絶と回復を繰り返した。
その後もユーゴスラビアは「東側」と言う枠の中には入りきらずに、西側陣営にも東側陣営にも属さない非同盟運動を巧みにリードして、米ソにその存在感を見せつけた。その結果、ソ連で脱スターリン化が意識され西側との平和共存路線が主張された1960年代以降は、ユーゴスラビアとの関係が比較的安定した。
このような経緯から、ユーゴは広く「衛星国」としては扱われない場合が多い。
[編集] ルーマニア社会主義共和国
ルーマニアは第二次世界大戦で枢軸国に付いたが、ソ連軍の侵攻・全土占領により従来の立憲王国は崩壊し、ルーマニア共産党による独裁支配が完成した。他の東欧諸国と同様にソ連に対して忠実で、典型的な衛星国の一つであった。
しかし、1965年にニコラエ・チャウシェスク政権が登場すると、豊富な石油生産を背景にした経済建設に成功した事でソ連から一定の距離をおき、当時ソ連と対立していた中国へと接近し、ソ連との断交と復縁を繰り返した。またソ連共産党との確執のあった日本共産党にも接近した。
ルーマニアもチャウシェスク政権以降は「衛星国」として扱わない場合が多い。
[編集] アルバニア人民共和国
アルバニアでは第二次世界大戦中にパルティザン闘争が盛んで、イタリアやドイツと戦った。戦後はエンベル・ホッジャによる独裁体制が成立したが、常に隣国のユーゴスラビアの存在を意識し、その指導者のチトーが独自の社会主義建設を主張した事で一層ソ連への依存度を高めた。
しかし、1956年にフルシチョフがスターリン批判を行うとホッジャは激しく反発し、国内での強権支配を一層強化して、修正主義と非難したソ連との関係を断絶した。1962年にはコメコン、1968年にはワルシャワ条約機構から脱退し、ソ連の衛星国からは完全に脱却した。
その後は中ソ対立を通じてイデオロギーが共通した中華人民共和国へと接近し、1965年からの文化大革命も「熱烈に支持」して、中国からの援助を受けた。またヨーロッパの周辺国とは事実上の鎖国状態となっていた。国交断絶後のソ連との関係はさらに悪化し、ソ連を仮想敵国と見なして国内の兵力増強に努めていた。しかし、1979年には、鄧小平による急速な改革路線に転じた中国とも断交し、1985年のホッジャ死後も東欧革命まで孤立無援であった。
[編集] 東欧の衛星国を取り留める装置
ソ連が衛星国に対して求心力を強めるために
があった。
ただし西側の「マーシャル・プラン」と比較しても「コメコン」が機能したとはとても言えず、またワルシャワ条約機構は安全保障の枠組みというよりも、衛星国から抜け出そうとする国に対しての暴力装置としての面が強かった。
この他にも、ソ連は東欧の中で数少ない産油国であったため、エネルギー分野でもこれらの国の運命を握っていた。ただし同じく産油国であったルーマニアはこの限りではなく早々と衛星国の枠組みから抜けてしまった。
[編集] 衛星国の解消
1985年にミハイル・ゴルバチョフが登場すると、これら「東欧」諸国に対するソ連の指導性を否定した(いわゆるブレジネフ・ドクトリン=制限主権論の放棄)。 これにより各国は独自路線に走ることを許されポーランドやハンガリーなど国内の改革を試みる動きも出てきた(ポーランド民主化運動、ハンガリー民主化運動を参照)。最終的にはベルリンの壁が崩壊し東欧諸国の共産主義政権が総倒れになることによって「衛星国」の枠組みは解消された(東欧革命を参照)。
[編集] 関連項目
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