松前重義
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松前 重義(まつまえ しげよし、1901年10月24日 - 1991年8月25日)は、昭和・平成期の日本の政府高官・科学者・教育者・工学博士。東海大学創立者。日ソの下交渉では必ず名前がでる人物であった。学生柔道の世界でも大きな貢献をなし、山下泰裕のパトロンとしても有名。クリスチャン(キリスト教徒)であり、主催した望星塾(東海大学の前身)は聖書研究会であった。
戦前から戦後まで技術畑と行政畑、教育面と八面六臂の活躍をみせ、論理的かつ柔軟な思考による行動は周囲の人望を集めた。時の権力者に対しても強固な意志で立ち向かった偉大な人物だが、世間における矛盾を見逃せず、また許せない性格でありこの点、自分で自分の首を絞める行為も多かった。
[編集] 来歴・人物
熊本県上益城郡嘉島町に生まれる。父は嘉島町の前身・大島村長を務めた松前集義。旧制熊本県立熊本中学校(現・熊本県立熊本高等学校)から官立熊本高等工業学校を経て東北帝国大学工学部を卒業。逓信省に高等技官として入省。
官僚時代には無装荷ケーブル等の画期的な発明をなし、日本の通信技術の進化に大きく貢献した。その一方で、内村鑑三に師事し、哲学を学ぶ。1942年逓信省工務局長のとき、航空科学専門学校、電波科学専門学校(後に東海科学専門学校として合併)を創設。教育界に進出する。
太平洋戦争(大東亜戦争)中は東條英機内閣の方針に強硬に反対したため、懲罰召集を受け42歳で二等兵として中国大陸の戦地に送られ、その際の経験は自伝『二等兵記』に詳しく描かれている(それ以前にも宴席でチフス菌に感染、重体となっている。宮中とコネクションを持つ松前を直接消せない為、病気に見せた暗殺工作であったとする説は有力)。大政翼賛会の青年部の部長も務めていた。戦後、逓信院総裁に就任するも、公職追放で辞職。
一方、松前の創設した東海科学専門学校は、戦後、旧制東海大学となり学制改革に伴い新制東海大学となる。
のち、日本社会党に所属し、衆議院議員をつとめる。なお、長男の松前達郎は、元参議院議員で、現在は東海大学総長。二男の松前紀男は元東海大学長、三男の松前仰は北海道東海大学長を務めた。更に達郎長男・松前義昭が九州東海大学長を務め、大学運営には松前一家が深く関わっている。
柔道界においては官立熊本高等工業学校(旧第五高等学校)で寝技主体の柔道、いわゆる高専柔道に励む。1969年、全日本柔道連盟理事に就任。1979年、国際柔道連盟会長に就任。1983年頃から全日本学生柔道連盟陣営として講道館との抗争を長年にわたって繰り広げる。
旧ソ連初の野球場モスクワ松前記念スタジアムの建設にも尽力した。
1991年8月25日死去。享年89。