松平清武
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松平 清武(まつだいら きよたけ、寛文3年10月20日(1663年11月19日) - 享保9年9月16日(1724年11月1日))は、上野館林藩の初代藩主。父は徳川家光の子・徳川綱重(清武は次男)。母は側室で、北条氏直の旧臣であった田中勝守の娘・お保良。徳川家宣の弟に当たる。
[編集] 経歴
3代将軍家光と側室・順性院の孫。4代将軍・家綱と5代将軍・綱吉は叔父(伯父)。7代将軍・徳川家継は甥。家宣の正室・天英院と家継の母・月光院は義姉。幼名は熊之助。はじめ、家臣の越智与右衛門の家督を継いでいたが、宝永6年(1709年)に兄・家宣が将軍に就任すると、寄合衆に任じられた。宝永4年(1707年)1月11日には、2万4000石の大名として館林藩主となる。その後、松平姓を下賜され(越智松平家)、宝永6年(1709年)にも加増を受け、正徳2年(1712年)には兄・家宣の死去による遺言で加増を受け、最終的には5万4000石の大名となった。そして、館林城の築城などに務める。
しかし藩財政が困窮したため、その再建を目指して重税を強いた。このため、領民の不満が爆発して、百姓一揆と江戸藩邸への強訴が起こる(館林騒動)。これに対して、清武は百姓側の指導者を死罪に処したが、年貢減免を認めざるを得なくなった。
子には松平清方がいたが早世。尾張徳川家の支藩の高須藩から養嗣子として松平武雅を迎えていた。
享保9年(1724年)9月16日、62歳で死去。後は武雅が継いだ。法号:本賢院養意日覚。 墓所:東京都荒川区西日暮里の關妙山善性寺。
清武の死により、徳川家光の男系は完全に断絶した(「清武の死によって秀忠の血筋が絶えた」と表す文献もあるが秀忠の庶子で家光には異母弟にあたる保科正之の系統である会津松平家によって秀忠の男系は清武没後も存続した)。
[編集] 8代将軍になれなかった理由
7代将軍家継が危篤状態に陥った時、天英院は8代将軍の候補として清武を推したという。清武が家継の叔父であり、血統的に最も近かったのが理由である。しかし清武は将軍にはふさわしくないとされる理由が主に3つあった。
- 家臣の越智氏に育てられてその家督を継いでおり、また松平の苗字を許されて藩主になったのが宝永4年(1707年)44歳の時であり、経歴上問題があった。
- すでに54歳と高齢であった。
- 実子に恵まれず、養子(武雅)を迎えていた。
また、清武自身にも将軍に対する野心は特になかったといわれる。 これらの理由から天英院は清武の将軍にすることを諦め、紀伊藩主徳川吉宗を推し、吉宗が8代将軍に就任するのである。
[編集] 経歴
※日付=旧暦
- 1679年(延宝7年)5月、熊之助から平四郎に改める。後年、玄蕃また、民部と改める。
- 1680年(延宝8年)5月28日、越智家300石の家督相続。
- 1697年(元禄10年)11月、叔父である将軍徳川綱吉に初めて引見する。
- 1702年(元禄15年)12月18日、従五位下下総守に叙任。
- 1704年(宝永元年)12月、2000石を賜う。
- 1705年(宝永2年)2月7日、2000石を加増。
- 1706年(宝永3年)1月19日、1万石を加増。
- 1707年(宝永4年)1月11日、松平の苗字を称することを許され、1万石を加増し、上野国館林24000石の藩主となる。また、出羽守に遷任。12月23日、従四位下に昇叙。出羽守如元。
- 1709年(宝永6年)12月、下野国内に1万石加増。 12月18日、侍従兼任。
- 1712年(正徳2年)2月16日、兵部大輔に転任。侍従如元。 12月、越後国内に2万石加増。計54000石となる。
- 1713年(正徳3年)12月19日、右近衛将監に遷任。侍従如元。
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