松田千秋
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松田 千秋(まつだ ちあき、 1896年(明治29年)9月29日 - 1995年(平成7年)11月6日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。熊本県鹿本郡出身。
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[編集] 略歴
旧制熊本県立鹿本中学校より海軍兵学校第44期入校。入校時成績順位は100名中第89位、卒業時成績順位は95名中第14位。
[編集] 人物像
松田は典型的な砲術畑の出身者である(仲人は同じ砲術出身の宇垣纏中将)。
駐米海軍武官補佐官、軍令部第1課員などの要職を歴任。標的艦「摂津」艦長として航空攻撃に対する操艦マニュアルを作成。実戦部隊である戦艦「日向」「大和」艦長や第4航空戦隊司令官を務めた際もその経験を活かして活躍した。
戦艦「日向」、及び、「伊勢」を航空戦艦への改装を提案したのも松田であった。
昭和11年1月に当時の内務省警保局特別警察部が作成した『海軍士官要監視人物』なる極秘資料に松田の名が記載されている。2.26事件に加担した陸軍青年将校の思想に同情的と見られていた為で該資料に掲載された海軍士官数名は事件後に予備役編入の処分を受けた。また松田は日本海軍の駐米経験者では珍しく反米主義者である。
総力戦研究所勤務時代には現在の「面接」のスタイルを日本で初めて導入したことで知られる。
[編集] 戦後
終戦後は(株)マツダカルテックスを経営。戦後はカード書類のランダム自動抽出装置を初めとする発明に専念し発明品で百以上が特許・実用新案を取得し商品化がなされた。
[編集] 年譜
- 1896年(明治29年)9月29日- 熊本県鹿本郡生
- 1913年(大正2年)9月3日- 海軍兵学校入校 入校時成績順位100名中第89位
- 1916年(大正5年)12月11日- 海軍兵学校卒業 卒業時成績順位95名中第14位・任 海軍少尉候補生・装甲巡洋艦「常磐」乗組・練習艦隊近海航海 有明湾~鹿児島~佐世保~青島~威海衛~大連~旅順~仁川~鎮海~舞鶴~安下庄~大阪~鳥羽~清水方面巡航
- 1917年(大正6年)3月3日- 帰着
- 1918年(大正7年)8月15日- 巡洋戦艦「榛名」乗組
- 1919年(大正8年)3月11日- 練習艦隊遠洋航海出発 上海~基隆~馬公~香港~マニラ~シンガポール~フリーマントル~セブ島~パラオ~トラック~サイパン方面巡航
- 1920年(大正9年)5月31日- 海軍砲術学校普通科学生
- 12月1日- 3等駆逐艦「夕立」乗組
- 1921年(大正10年)12月1日- 巡洋戦艦「金剛」分隊長心得
- 1922年(大正11年)12月1日- 任 海軍大尉・海軍砲術学校高等科第22期学生
- 1923年(大正12年)11月29日- 海軍砲術学校高等科優等卒業
- 12月1日- 1等駆逐艦「神風」砲術長兼分隊長
- 1924年(大正13年)12月1日- 戦艦「陸奥」分隊長
- 1925年(大正14年)12月1日- 海軍砲術学校教官
- 1926年(大正15年)12月1日- 海軍大学校甲種第26期入校
- 1928年(昭和3年)11月6日- 海軍大学校卒業 卒業時成績順位22名中第12位
- 1929年(昭和4年)5月1日- アメリカ語学留学
- 1930年(昭和5年)5月1日- 在アメリカ大使館附海軍駐在武官府補佐官
- 1931年(昭和6年)5月1日- 帰朝
- 1933年(昭和8年)10月1日- 軍令部第1部第1課
- 1934年(昭和9年)4月2日- 免 陸軍参謀本部員
- 11月15日- 兼 海軍省軍務局第2課
- 1935年 軽巡洋艦「阿武隈」副長
- 1938年(昭和13年)8月25日- 水上機母艦「神威」艦長
- 1939年(昭和14年)1月14日- 軍令部第3部第5課長
- 1940年(昭和15年)5月22日- 欧米各国出張
- 1941年(昭和16年)9月1日- 標的艦「摂津」艦長
- 1942年(昭和17年)2月10日- 聯合艦隊司令部附
- 1943年(昭和18年)5月1日- 任 海軍少将
- 1944年(昭和19年)5月1日- 第4航空戦隊司令官
- 1945年(昭和20年)3月1日- 軍令部出仕
- 1995年(平成7年)11月6日- 死去 享年99
[編集] 参考文献
- 戦史叢書・第72巻 中国方面海軍作戦(1) (防衛庁防衛研修所戦史部編・朝雲新聞社)
- 井上成美(阿川弘之著・新潮社) ISBN 4-10-300413-4 C0093
- 海軍砲戦史談(黛 治夫著・原書房)
- 日本陸海軍の制度・組織・人事(日本近代史料研究会編・東京大学出版会)
- 海軍兵学校沿革・第2巻(海軍兵学校刊)
- 海軍兵学校出身者名簿(小野崎 誠編・海軍兵学校出身者名簿作成委員会)