椿海
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椿海(つばきのうみ)とは江戸時代まで下総国の香取・匝瑳・海上郡(現在の千葉県東庄町、旭市、匝瑳市)の境界付近にあった湖である。伝えられるところでは東西3里南北1里半(約51平方キロメートル)の大きさがあったと言われている。
昔この地に邪神が住む椿の大木があり、香取神宮がこれを東方の海中に椿の木ごと放逐したところ、その跡地に水が溜まって海になったという伝説があるが、当時の玉浦の入江が犬吠埼方面からの砂洲の形成によって出入り口を塞がれできた湖である。
徳川家康の関東移封に伴ない、木曾義昌・義利父子が近くの下総国阿知戸(現在の旭市網戸)に封じられたが、義利の代に改易されている。
江戸時代初期に江戸の町人・杉山三郎衛門が干拓を幕府に申請したが許可されなかった。続いて、白井治郎右衛門が友人の幕府大工頭辻内刑部左衛門とともに再度申請、この際辻内は自分が帰依していた黄檗宗の僧侶鉄牛道機の援助を求めた。鉄牛は幕府首脳に進言して寛文8年(1668年)に許可を得ると工事が開始された。ところが白井は破産し、辻内の病没すると資金難もあり事業継続が困難となった。そこで鉄牛が老中稲葉正則と談判して6,000両の融資を受ける事に成功し、改めて辻内の婿養子・善右衛門と江戸商人の野田市郎右衛門・栗本源左衛門に工事の継続が命じられた。翌年より1年がかりで新川の開削に成功すると排水が進み、寛文11年(1671年)には新田開発が出来るまでになった。この間の3年間でのべ8万人の人員が工事に動員されたといわれている。延宝2年(1674年)からは1町歩あたり5両で干拓地の売却が開始された。
途中、貞享3年(1686年)には工事の責任者である3人(辻内・野田・栗本)に不正があったとして追放処分を受けるが、新田開発は順調に進み、元禄2年(1695年)の幕府の検地により、「干潟8万石」18ヶ村(春海・米持・秋田・万力・入野・米込・関戸・万歳・八重穂・夏目・幾世・清瀧・大間手・長尾・高生・琴田・鎌数・新町)が成立した。
[編集] 参考文献
- 千葉大百科事典(千葉日報社、1982年)
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