楊修
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
楊修(ようしゅう、175年?-219年)は、魏の武将。楊氏は「四世大尉」という名門。前漢初期の赤泉侯楊喜や昭帝時丞相の安平侯楊敞の子孫、楊震の玄孫、臨晋侯楊賜の孫、後漢の三公の一人であった楊彪の子、楊囂の父、楊準の祖父。母は袁術の妹。字は徳祖。または楊脩ともいう。
[編集] 略要
[編集] 生涯
司隷弘農郡華陰県の人。才能に秀でていたため、曹操に見出されてその家臣となった。三国志演義で教養面や政治面に優れた人物として描かれているように、正史における楊修も、頭脳明晰の天才であった。219年、漢中をめぐる劉備との攻防戦で、曹操軍が苦戦を強いられた時、曹操が言った「鶏肋」という言葉に対し、「鶏肋(鶏ガラ)は、食べるほどには身がないが、ダシが出るので捨てるには惜しい」、すなわち「惜しいが今が撤退の潮時」と解釈し、撤退の準備を命じたという。
しかしまもなく曹操によって処刑された。曹操の正嫡の三男(実際は五男)・曹植と親しくなり、その参謀となって曹植を曹操の後継者にしようと尽力したためとも(楊修は曹植の学問の先生であり、「答教」という教科書を用いて魏の政治的問題を教え、魏の後継ぎ問題にも関わるほどに曹植に肩入れをしたため、曹操は何か楊修が問題を起こした時に殺害しようと決意していた)、母親が袁術と縁続きであったことを疎まれてのことであるとも、その天才的な才能を、曹操や曹丕、そして司馬懿などからも恐れられていたとも言われており、明確な理由は分かっていない。
[編集] 演義の楊脩
『三国志演義』では、批評家の禰衡に「曹操の配下には孔融と楊修しか人材がいない」と評された。蜀より訪れた張松を接待してる内にその才を認め、曹操に面会を申し入れるが、逆に曹操の逆鱗に触れた張松は百叩きの罰を与えられ、楊修の前から去ってしまっている。劉備軍との漢中攻防戦において、「鶏肋」の謎を解き、退却の準備を始めたため、曹操の怒りに触れて処刑されたとする。曹操は「鶏肋」という言葉が軍を退くということではないことを示すために劉備軍へ攻めかかったが、劣勢の上、長征で疲労気味の兵では劉備軍にかなうはずもなく結局は惨敗、曹操自身も弓矢で前歯を折られ命からがら逃げ返った。兵士らは「楊修の言うとおりに軍を退いていれば損害を最小限に食い止められたのに」と思ったという。