ラインラント進駐
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ラインラント進駐(ラインラントしんちゅう、英:Remilitarization of the Rhineland、独:Rheinlandbesetzung)とは、1936年3月7日にドイツ軍が、非武装化されていた、ラインラントに陸軍を進駐、武装化した事件のことを言う。
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[編集] 背景
第一次世界大戦後、ドイツと連合国の間で結ばれたヴェルサイユ条約の第42項目と第44項目において、ドイツは「ライン川の東15kmより西側の、ライン川の両岸に要塞を建築したり維持してはいけない」と定められていた。そこには以下の様に記述されている。この条項に対する違反が「どのような形でも」行われた場合、これは、「敵対的行為を行い、・・そして、世界の平和を脅かす行為を行っているとみなされる。」[1]
ロカルノ条約は、1925年にドイツ、フランス、イギリスにより調印され、ラインラントは非武装化された。
ヴェルサイユ条約は同様に1935年に連合国の戦力がラインラントから1935年に撤収することも規定していた。これは、実際には1930年に撤退が行われた。 1929年に行われたドイツの補償にするハーグ会議における英国代表(フィリップ・スノーデン(財務大臣)、アーサー・ヘンダーソン(外務大臣))はドイツの賠償金の低減とイギリス及びフランスの陸軍がラインラントから撤収することを提案した。ヘンダーソンは全ての連合国の占領軍がラインラントを1930年6月までに撤収することを受け入れるように、フランスの首相、アリスティード・ブリアンを説得した。イギリスの兵士は1929年の終わりに、フランスの兵士は1930年6月に撤収を完了した。
[編集] ドイツの再武装
1936年1月ドイツの総統、アドルフ・ヒトラーは、ラインラントを再占領する決心を行った。2月12日、彼は軍務大臣であるヴェルナー・フォン・ブロンベルク将軍に自分の意図を知らせ、陸軍総司令のヴェルナー・フリッチにいくつかの歩兵大隊と砲兵中隊をラインラントに輸送するのに何日かかるかを聞いた。フリッチは編成に3日かかると答えた。彼自身は、ドイツ軍はフランス軍と陸戦を行える状態に無いと信じていたので、交渉での解決を望んでいた[2]。ルートヴィヒ・ベック将軍はヒトラーに対して、ドイツ陸軍はフランス軍の報復攻撃からドイツを守ることはできないと警告した[3]。ヒトラーは、フランス軍がドイツ軍の前進を停止させるために軍事的な介入を行う様であれば、ドイツ軍は即座に撤兵すると言ってフリッチを安心させた。作戦は、Winter Exercise(冬季演習の意味)のコードネームとなった。この作戦は、フランス政府の省庁が休みとなると考えていた土曜日に実行された。夜明け後すぐ、19個の歩兵大隊と、少数の航空機がラインラントに進軍した。それらの部隊は、午前11時までにライン川に到着し、その後、3個大隊がライン川を渡った。ドイツの偵察部隊が、数千のフランス兵がドイツ・フランス国境に集結しているとの情報をもたらした際、ブルームベルク将軍は、ヒトラーにドイツ軍の撤収を進言した。ヒトラーは、フランス軍が国境を越えたかどうかを尋ね、横切っていないことを確認できた際には、ヒトラーは、ブルームベルクにそれがおきるまで待つように言った[4]。
第二次世界大戦後フランスの指揮官に尋問をされたドイツ軍の将軍であるハインツ・グデーリアンは、以下の様に述べた。「もし、1936年にフランス軍がラインラントに侵入してきていたら、我々は敗北し、ヒトラーは失脚していただろう。」[5]ヒトラー自身は後に以下のように述べた。
「ラインラントへの進軍後48時間は私の人生で最も不安なときであった。 もし、フランス軍がラインラントに進軍してきたら、配備されていた軍事的な装備は、抵抗するには完全に不足しているため、我々は両足の間に尻尾を挟みこんで逃げ出さなければいけなかった。」[6]
[編集] 対応
[編集] フランス
100個師団以上の軍備を持ち、この時点ではドイツ軍と比較して優れた装備を保有していたフランスは、ドイツにその兵力を使用する精神的な準備ができていなかった[7]フランスの外務大臣のピエール・エティエンヌ・フランディンがこの知らせを聞いた時には、彼はイギリスの首相スタンリー・ボールドウィンの意見を聞きに即座にロンドンへ飛んだ。ボールドウィンはフランダンにフランス政府が何をするつもりかを尋ねたが、フランディンは何も決まっていないと答えた。フランディンはパリに戻り、フランス政府がどのような対応をすべきか、政府内で話し合った。彼らは以下の様な同意に達した。「フランス政府は条約違反に対して抗議し、フランス軍の戦力は国際連盟の処分に従う。」[8]フランス陸軍の総司令官であるガムラン将軍は、フランス軍がドイツ軍に反撃した場合、これは長い戦争を引き起こし、フランスは一国のみで勝利することはできず、イギリスの支援が必要となると、フランス政府に告げた。フランス政府はすぐある総選挙を考え、フランス軍の総動員を否決した[9]。再武装は、フランスがドイツより優位であった最後の点を取り除き、ヴェルサイユ条約により得られていたフランスの安全を終結させた。フランス陸軍がラインラントを占領する限り、フランスはドイツにおける状況がまだ脅しになると信じていたのならば、経済的に重要なルール地方はフランスの侵攻に対して警戒しなくてはならなかったためである。[10]
[編集] イギリス
イギリスの反応は様々であった。しかし、一般には、再武装は問題であると考えていなかった。ロージアン卿は、ドイツは自分自身だけで歩くべきだと言う有名な発言を行った。ジョージ・バーナード・ショーはイギリスがポーツマスを再占領するのと違いは無いと同様の発言を行った。3月23日の彼の日記で、ハロルド・ニコルソン下院議員は次のように記述している。「(英国)下院の考えは酷く親ドイツ的である。これは、戦争を怖がってのことである。」[11]スタンリー・ボールドウィンは、イギリスは条約を守らそうとする手段を欠いている、大衆の意見は軍隊をまったく支持していない、と涙をためながら言った。イギリスの外務大臣、アンソニー・イーデンはフランスの軍事行動を抑制させて、ドイツに対する経済的金銭的な処罰に反対した。
3月12日に下院の外務委員会の会合で、保守党の後部席保守議員はであるウィンストン・チャーチルは、ラインラント再武装に対するフランスの要求を助けるために、国際連盟の元での英仏間の調整に賛成した。
[編集] ベルギー
ベルギーは1920年にフランスとの同盟を終結していたが、再武装の後ベルギーは中立性を維持すると言う選択を行った。1936年10月14日、ベルギーのレオポルド3世王は以下の様な演説を行った。
ラインラントの再占領はロカルノ条約の終了であり、我々を戦前の国際的な位置に戻した。・・・我々は他国と同盟することの無い政策を進め、ベルギー全てを導いていかなければならない。この政策は我々の隣人たちの争いの外に自分たちを置くことを目的としなければならない[12]
[編集] ポーランド
ポーランドは1921年に調印されたフランス・ポーランド防衛協定を遵守する宣言を行った。その協定は、ポーランドはフランスが侵攻された場合にのみ、フランスを支援すると規定していたが、ポーランドは仮にフランスが最初に侵攻を行った場合でも、自国の軍隊の動員を行うことを宣言した。しかし、国際連盟の総会における再武装に対する投票ではポーランドは棄権をした。
[編集] 国際連盟
ロンドンで国際連盟の総会が開かれた際に、ドイツへの制裁に賛成している唯一の代表は、ソビエト連邦の代理であるマクシム・リトヴィノフだけであった。満場一致ではなかったが、総会は再武装がヴェルサイユ条約とロカルノ条約に対する違反であると断言した。ヒトラーはヨーロッパの新たな安全に対する新しい計画を求められ、「ヨーロッパにおける領有主張を行うつもりは無い」と言う返答を行ない、イギリスやフランスとの間で25年の不可侵条約を結ぶことを要求した。しかし、イギリス政府がこの提案した条約に関して更に詳細を要求したが、それに対する回答は無かった[13]。
[編集] 参考文献
- ^ Martin Gilbert and Richard Gott, The Appeasers (Phoenix Press, 2000), p. 41.
- ^ Rupert Matthews, ヒトラー:軍事指導者(Hitler: Military Commander) (Arcturus, 2003), p. 115.
- ^ 同書(Ibid), p. 13.
- ^ 同書(Ibid), p. 116.
- ^ J. R. Tournoux, Petain et de Gaulle (Paris: Plon, 1964), p. 159.
- ^ Alan Bullock, ヒトラー:専制の研究(Hitler: A Study in Tyranny) (London: Odhams, 1952), p. 135.
- ^ Shirer quotes the figure of France having 100 divisions compared to Germany's four battlions.
- ^ A. J. P. Taylor, The Origins of the Second World War (Penguin, 1991), p. 130.
- ^ 同書(Ibid), p. 131.
- ^ Correlli Barnett, The Collapse of British Power (Pan, 2002), p. 336.
- ^ Harold Nicolson, The Harold Nicolson Diaries: 1919-1964 (Weidenfeld & Nicholson, 2004), p. 139.
- ^ Charles Cheney Hyde, 'ベルギーと中立(Belgium and Neutrality)', The American Journal of International Law, Vol. 31, No. 1. (Jan. 1937), p. 82.
- ^ Taylor, p. 133.
- Correlli Barnett, イギリスの力の崩壊(The Collapse of British Power) (Pan, 2002).
- Alan Bullock, ヒトラー:専制の研究(Hitler: A Study in Tyranny) (London: Odhams, 1952).
- Martin Gilbert, チャーチル:生涯(Churchill: A Life) (Pimlico, 2000).
- Martin Gilbert and Richard Gott, The Appeasers (Phoenix Press, 2000).
- Charles Cheney Hyde, 'ベルギーと中立(Belgium and Neutrality)', The American Journal of International Law, Vol. 31, No. 1. (Jan. 1937), pp. 81-85.
- Rupert Matthews, ヒトラー:軍事指導者(Hitler: Military Commander) (Arcturus, 2003).
- Harold Nicolson, ハロルド・ニコルソンの日記(The Harold Nicolson Diaries: 1919-1964) (Weidenfeld & Nicholson, 2004).
- A. J. P. Taylor, 第二次世界大戦の原因(The Origins of the Second World War) (Penguin, 1991).
- J. R. Tournoux, Petain et de Gaulle (Paris: Plon, 1964).
- ロカルノ条約のテキスト(英文) (Wikisource)
- ヴェルサイユ条約のテキスト(英文) (Wikisource)
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