田中耕太郎
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田中耕太郎(たなか こうたろう、1890年10月25日 - 1974年3月1日)は、第2代最高裁判所長官であり、日本の著名な法学者である。松本烝治門下。
1960年(昭和35年)11月3日、文化勲章受章。1964年(昭和39年)4月29日、勲一等旭日大綬章受章。1970年(昭和45年)4月29日、勲一等旭日桐花大綬章受章。1974年(昭和49年)3月1日、大勲位菊花大綬章を没後叙勲(日本国憲法施行後、皇族・内閣総理大臣経験者以外で大勲位に叙されたのは、田中のみ)。正二位。元国際司法裁判所判事。
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[編集] 略歴
- 鹿児島県鹿児島市生まれ。佐賀県杵島郡北方町(現:武雄市)出身。
- 福岡県立中学修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)卒業。第一高等学校と海軍兵学校の両方とも合格し、父の勧めで、第一高等学校へ進学。
- 第一高等学校卒業
- 東京帝国大学法学部を首席で卒業し、恩賜の銀時計を授かる。
- 内務省に勤務するが、1年半で退官。
- 東京帝国大学助教授。
- 1917年 同大教授。
- 1937年 同大法学部長
- 1945年10月 文部省学校教育局長。
- 1946年5月 第一次吉田茂内閣の下で文部大臣(-1947年1月31日)
- 1946年6月 貴族院議員に就任。
- 1947年4月 第1回参議院選挙に全国区から出馬し、第6位で当選。参議院議員。無所属最大会派の緑風会に所属。
- 1950年5月4日 第2代最高裁判所長官に就任(-1960年10月24日)
- 1961年 国際司法裁判所判事(1960年選出 -1970年)。
[編集] 家族
父は千葉地方裁判所検事局(現在の千葉地方検察庁)検事正。妻は峰子(松本烝治の娘)。大学時代、「お月さまの妖精」と自ら呼んだ女性に恋いこがれたエピソードもある。 実弟に、飯守重任(元鹿児島地方裁判所・家庭裁判所所長)がいる。
[編集] 商法学者
専門は、商法学であり、教育基本法をはじめとする各種立法にも参加したが、他方、トミズムに立脚した法哲学者としても広く知られ、『世界法の理論』全三巻(1932年-1934年)においては、法哲学・国際私法・法統一に関する論を展開した。門下に鈴木竹雄、西原寛一など日本を代表する商法学者がいる。商法学者として研究を始めた彼は、商取引の国際性・世界性に着目し、商法という実定法研究から、名著『世界法の理論』(学士院賞、朝日賞受賞)にいたるような法哲学研究にまで領域を広げていった。
[編集] 国際司法裁判所判事
1961年から1970年には、国際司法裁判所判事として活躍した。5つの事件と1つの勧告的意見に関わり、2つの個別的意見と2つの反対意見を残した。特に、1966年の「南西アフリカ事件」(第二段階)判決に付けた長文の反対意見は、有名であり、非常に権威のあるものとして、今日でもしばしば引用される。
[編集] 横顔
第二次世界大戦末期には、南原繁、高木八尺らと東京帝大の知米派教授グループによる対米終戦交渉、カトリック信者としての人脈を生かしてのローマ教皇庁を通じた対外和平工作にも関与した。
敗戦まで16年も獄中にいた日本共産党幹部の志賀義雄が一高の同窓生であることもあって、食料や本などの差し入れを続け、戦時中は、軍部にとって要注意人物とされたが、非妥協的な姿を崩さなかった。しかし、最高裁判所長官就任後は、「田中長官、共産主義の仮面を痛撃」「目的は憲法の否定」と報じられるなど、彼自身は反共主義者に徹した。
最高裁長官時代の彼の発言として有名なのは、後に冤罪であることが判明(最高裁で確定)した「八海事件」をめぐるマスコミ論調を「雑音に惑わされるな」と批判したり、「松川事件」の下級審判決を「木を見て森を見ざるもの」と批判するなど、現在の最高裁とは違う意味で、世間の注目を集めた長官であった。
[編集] 参考文献
- 山本祐司『最高裁物語(上・下)』(日本評論社、1994年)(講談社+α文庫、1997年)
[編集] 関連項目
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