志賀義雄
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志賀 義雄(しが よしお、1901年 - 1989年3月6日)は日本の政治家で、共産主義運動の活動家。衆議院議員、日本共産党中央委員、「日本共産党 (日本のこえ)」委員長などを務めた。
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[編集] 経歴
[編集] 戦前の活動と投獄
東京大学在学中に学生運動に参加し、在学中の1923年には、前年に非合法政党として結成された日本共産党へ入党。その後は共産党の活動を行ったが、1928年の三・一五事件において検挙され、治安維持法により有罪とされた。獄中生活は1945年に日本が第二次世界大戦で敗北するまで続いたが、志賀は多くの党員と異なり、獄中でも転向拒否を貫いた。
[編集] 戦後の活動
日本の敗戦後、志賀は10月に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令に基づいて府中刑務所から徳田球一などと共に釈放され、党政治局員として徳田書記長や野坂参三政治局員等と共に党勢拡大に努めた。1946年の第22回衆議院議員総選挙では大阪1区(大選挙区制)で当選し、同党初の国会議員となった5人の中に名を連ねた。志賀はその後も中選挙区制の大阪1区で衆議院議員への当選を重ねた。
1950年1月、当時の共産党が掲げていた占領下の平和革命路線をコミンフォルムが批判したのを契機に徳田らが武装闘争路線へと傾いたのに対して反論を提示し、宮本顕治と共に国際派として扱われた。国際派は党内の反主流派で、徳田ら主流派は志賀の党員資格を停止し、事実上除名した。また、同年にはGHQから公職追放対象者となり、衆議院議員の地位を喪失した志賀は地下に潜伏した。
その後、1955年に共産党が武装闘争路線を放棄すると、志賀は再び公然活動を開始した。また、同年に徳田が1953年に既に北京で死去していた事が発表されると、その遺骨を引き取りるために、徳田の妻のたつと共に日本との国交がなかった中華人民共和国を訪問した。これは、日本共産党の関係者が初めて合法的に中国を訪問した例とされている。
以後、志賀は共産党の常任幹部会員として、宮本書記長の平和革命・議会活動重視路線を支持した。党勢の緩やかな回復と大阪での強固な党支持基盤に支えられ、衆議院での議席奪回にも成功した。
[編集] 日本のこえ
1963年に部分的核実験停止条約が調印され、1964年に国会でその批准が問われると、志賀は共産党内で再び少数派となった。当時は中ソ対立が激化しており、この時点では中国共産党と友好関係があった日本共産党は中国と歩調を合わせる形で条約批准反対を決めた。しかし、ソ連共産党に近いとされる志賀はこの条約を支持し、党の決定に反して5月15日の衆議院本会議採決で賛成投票を行った。その結果、5月21日に共産党中央委員会は志賀の除名を決定した。一方、6月30日に、志賀は自分と同時に共産党を除名された参議院議員の鈴木市蔵の他、神山茂夫や中野重治らと共に「日本共産党 (日本のこえ)」を結成すると発表し、自らが委員長となった。
部分的核実験停止条約でソ連の意向に添った日本のこえ派はソ連共産党の支持を受け、同年に機関紙「日本のこえ」を創刊したが、日本共産党員のほとんどは宮本を中心とした従来の執行部を支持し、志賀を支持したのは新日本文学会の主流派などを除くとわずかであった。その結果、志賀は自らの支持基盤を失い、1967年1月29日の第31回衆議院議員総選挙では大阪6区(この選挙から旧大阪1区が分区された)で落選して、通算6期で衆議院議員としての国会活動を終えた。その後も同派は混乱と低迷を続け、同年10月には神山と中野が同派を離脱した。1968年には自派から「日本共産党」の名称を外して「日本のこえ」としたが、同年7月の第8回参議院議員通常選挙に鈴木が出馬を断念し、同派所属の国会議員はいなくなった。
1977年、同派は「平和と社会主義」と改称し、創立時の名称からは完全に変更した。さらに1979年、日本共産党は代表団をソ連に派遣し、ソ連共産党との関係を修復したため、国際的な後ろ盾を失った志賀は日本の共産主義運動における影響力を大きく低下させた。