由井正雪
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由井 正雪(ゆい しょうせつ/まさゆき 慶長10年(1605年) - 慶安4年7月26日(1651年9月10日))は江戸時代の軍学者。油井 正雪と由比 正雪と書く場合もある。
[編集] 経歴
駿府宮ケ崎町(由比町との説もある)の紺屋の生まれ。幼い頃より才気煥発で17才で江戸の親類に奉公に出たが、楠木正成の子孫の楠木正虎の子という軍学者楠木正辰(楠木不伝)の弟子になるとその才能を発揮し、やがて師匠の娘と結婚し養子になった。楠木正雪あるいは楠木氏の本姓の橘氏から「由井民部之助橘正雪」(ゆい・かきべのすけ・たちばな・の・しょうせつ/まさゆき)と名のり、やがて神田連雀町に楠木正辰の南木流を継承した軍学塾「張孔堂」を開いた。道場は中々の評判で、一時は3000人もの門下生を抱えたとされる。門下生の中には大名の子弟や旗本なども多く含まれていた。
慶安4年(1651年)に由井正雪の乱ともいわれる慶安の変を起こし駿府にて自害。
[編集] 慶安の変
江戸幕府第3代将軍徳川家光の死の直後に、幕府政策への批判と浪人の救済を掲げ、長宗我部盛親の子孫という宝蔵院流の槍術家丸橋忠弥(長宗我部盛澄)や金井半兵衛など浪人を集めて幕府転覆を計画した事件。事前に発覚したため、正雪は移動途中の駿府の宿にて町奉行の捕り方に囲まれ自刃した。
この事件は次の江戸4代将軍徳川家綱以降の政治が武断政策から文治政策へ転換することになったきっかけの一つとも言われている。
[編集] 関連施設
静岡県庵原郡由比町に正雪の生家とされる染物屋がある。