皇甫嵩
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皇甫嵩(こうほ・すう ? - 195年)は後漢末期の軍人。字は義真(ぎしん)。安定郡朝那県出身。皇甫棱の曾孫、扶風都尉皇甫旗の孫、皇甫節の子、度遼将軍皇甫規の甥、皇甫堅・皇甫寿(もしくは堅寿)の父、皇甫謐の曾祖父。
霊帝の在位中、議郎、北地太守を務める。黄巾の乱勃発の際、左中朗将に任命され乱鎮圧に向かう。当初は劣勢であったが、潁川、汝南、陳、東郡の各地を転戦し勝利を上げ、ついに広宗の戦いで黄巾賊の首領張角の弟張梁を討つとともに、病死していた張角の棺を壊し首を首都へ送る。さらに曲陽では張角の弟張宝を討ち、黄巾軍の討伐に成功する。この功により、左車騎将軍に任命され、槐里侯に封じられ八千戸の食邑を与えられ、冀州牧を命じられる。
その頃、冀州の信都の令であった閻忠は皇甫嵩へ、世は乱れており自身の名声と行いが自身に災いを招くこと、それを避けるために独立して軍兵を動かし天下を一つにまとめ、民心に従い漢王朝に代わり帝位に就くようにと、韓信の故事を引いて説得した。しかし皇甫嵩は拒絶し、閻忠は逃亡した。
辺章ら反乱軍の討伐を命じられ功をあげるが、中常侍の法令違反を上奏し、賄賂の要求を拒否したため中常侍に讒言され、左車騎将軍と食邑六千戸を取り上げられ都郷侯に封じられた。
188年、賊の王国が陳倉を攻撃した際、皇甫嵩が討伐を命じられ、董卓の軍を率いて向かった。その軍中で董卓の提案する策をいずれも退け、その正反対の策を用い勝利を収める。このことから董卓に憎まれることになる。 同年中に二度にわたって、朝廷から董卓に対し、軍権を皇甫崇に渡して帰還するよう指示が届くが、董卓は拒否し、彼は朝廷に事の次第を上書、争いは決定的となり、後に董卓が中央で政権を取ると召還されて逮捕投獄される。 危うく死刑になりかけるが、董卓と親しくしていた息子堅寿の取りなしで免罪され、議郎に任じられた。
董卓が太師となり壇上へ赴く際、彼一人が頭を下げなかったので「義真、まだかな?」と問われ、「これは失礼した。」と謝罪をしている。弁が廃されてもなんら異議を唱えず董卓にも叛意を抱いていないことから、彼は王朝そのものに仕え、皇帝個人には忠誠を尽くさなかったと思われる。
王允・呂布による董卓殺害後は再び栄進し、征西将軍、車騎将軍、太尉にまで登りつめたが、その直後の195年に病没。驃騎将軍の印綬が贈られた。
[編集] 評論
華歆は彼が、数々の戦功を上げながらいずれも同僚の手柄とし、自らの戦功を論じることがなく、そのために恨みや禍とは無縁であった、と称賛している。
范曄は彼を称賛しつつも、大業を棄て小義にこだわったことで智者の笑うところとなった、と評している。閻忠の献策を用いず、詔に従わない董卓を罰することをせず、反董卓連合軍に呼応し董卓を挟撃することもしなかったことを指すのだろう。