東急玉川線
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東急玉川線(とうきゅうたまがわせん)は、東京都渋谷区の渋谷駅と、世田谷区の二子玉川園駅(現:二子玉川駅)を結んでいた、東京急行電鉄が運営する鉄道路線(軌道線)。もとは玉川電気鉄道(たまがわでんきてつどう)が運営していた。通称「玉電」。旅客案内上は玉川電車と表記することもあった。
本項では、玉川線の支線である砧線(きぬたせん)および溝ノ口線(みぞのくちせん)についても記述する。
目次 |
[編集] 路線データ
下記のデータは特記なければ路線廃止時点(溝ノ口線については大井町線編入前)のもの。
- 路線距離(営業キロ):
- 玉川線:渋谷~二子玉川園間 9.1km
- 砧線:二子玉川園~砧本村間 2.2km
- 溝ノ口線:二子読売園~溝ノ口間 2.1km
- 軌間:1372mm
- 駅数:(起終点駅含む)
- 玉川線:15駅
- 砧線:5駅
- 溝ノ口線:4駅
- 複線区間:
- 玉川線:全線
- 砧線:なし(全線単線)
- 溝ノ口線:二子~溝ノ口間
- 電化区間:玉川線・砧線・溝ノ口線とも全線(直流600V)
- 閉塞方式:スタフ閉塞(砧線)
[編集] 概要
玉電(玉川線)は、1907年に玉川砂利電気鉄道により、二子多摩川付近の砂利を都心に輸送することを主目的として開設された。砂利輸送のため、渋谷で東京市電と軌道が接続され、天現寺線とも直通運転がされたが、1934年に二子橋より下流での砂利採取が全面禁止され、さらに多摩川砂利電気鉄道の後身である玉川電気鉄道の経営権が東京横浜電鉄や目黒蒲田電鉄を経営していた五島慶太らに移って以降は、旅客輸送が中心となった。1938年、既に東京横浜電鉄傘下となっていた玉川電気鉄道は東京横浜電鉄に合併され、1942年、社名変更に伴い東京急行電鉄玉川線となった。
玉川電気鉄道は、新町付近に東京信託を通じて住宅地を開発(桜並木を設け、のち新町は桜新町に改称されている)、沿線住民を電車利用者とする施策をとった。溝ノ口駅付近・久地近辺の丘陵部は、溝ノ口線開業にともない玉川電気鉄道社長津田興二により開発されている(のち津田山と呼ばれるようになった)。
また、玉川電気鉄道及び東京急行電鉄は、旅客誘致の施策の一環として、明治期から景勝地であった玉川・瀬田地区に、玉川遊園地、玉川第二遊園地(のちの読売遊園、二子玉川園)や玉川プール(現在の東急自動車学校の地)、川魚を出す料亭、演芸場「玉川閣」(ぎょくせんかく)を開設し、二子多摩川の兵庫島、久地の梅林、二子の桃林などとあわせて、玉川線・溝ノ口線を都心部からの行楽輸送の足としても機能させている。
三軒茶屋~下高井戸間(現・世田谷線)は玉川線の支線として渋谷~下高井戸間で直通運転がなされたほか、溝ノ口線も直通運転された時期があった。戦前は渋谷で天現寺線とレールがつながり直通運転されていた。砧線は二子玉川園で玉川線と接続していた。
1969年5月11日、玉川通り(国道246号)上への首都高速道路3号渋谷線の建設、営団地下鉄銀座線と接続する地下鉄建設の計画(のちの新玉川線)等により、支線である三軒茶屋~下高井戸間を除いて、玉川線、砧線は全線廃止された(溝ノ口線は1943年に大井町線に編入されている)。玉川線の支線であった三軒茶屋~下高井戸間は、東急世田谷線として現存している。玉川線区間については、1977年4月7日の新玉川線の開業まで、代行バスが運行された(後述)。
[編集] 玉川線
- 路線
ターミナルである渋谷駅は、現在の渋谷マークシティ内、京王井の頭線と東京メトロ銀座線の線路に挟まれた場所、玉電ビル(のちの東急百貨店東横店西館)の2階部分にあった。玉川線廃止後、専用軌道はバス専用道となり、停車場跡地にバス折り返し用のターンテーブルが設置されたが、渋谷マークシティ建設に伴い撤去された。玉川線は東急百貨店東横店西館(当時は玉電ビル)を介して山手線に直結していた。JR渋谷駅の「玉川口」「玉川改札」という名称は玉川線が走っていた当時の名残である。
渋谷~道玄坂上間(後に渋谷~上通間となる)には碓氷峠や京阪京津線と同様の66.7‰勾配が存在していた(「道玄坂越え」とも言われる)。
道玄坂から先はほぼ併用(路面)軌道であったが、渋谷~道玄坂上間、玉電中里~上馬付近、桜新町~用賀、瀬田~身延山別院間、支線(現在の世田谷線)の三軒茶屋~下高井戸間に専用軌道が存在した。用賀付近の専用軌道跡は1990年頃まで東急の物置き場として静かな佇まいを残していたが、その後、東京都道427号瀬田貫井線に転用された。玉電中里、駒沢、用賀には駅舎と売店が設けられていた(駒沢は東京オリンピックに備えた道路拡張の際に消滅)。
専用軌道で大坂を下り、目黒川を渡り、三軒茶屋で、本線と支線に分岐した。本線は、中里付近や桜新町・用賀間などで専用軌道を走りながら旧大山街道を進み、環八通りを横断し瀬田を過ぎて右手に多摩川の河原を眺めつつ国分寺崖線を下り、、二子玉川園に至っていた。
- 車庫
車庫は大橋に設けられ、渡り線は大橋、三軒茶屋、駒沢、用賀に設けられた。用賀には車両基地予定地が存在し、最後の新型車両150型の入線もここの渡り線から行われた。大橋車庫はのち東急バス大橋営業所に転用され、現在は首都高速道路大橋ジャンクション建設地になっている。二子玉川園の駅、留置線は玉川高島屋に、用賀の車両基地予定地は世田谷ビジネススクエアになった。
- 車両
2両連結の流線型連接車軸の奇抜な電車(デハ200形)を1955年に導入。一部の子ども達の間では芋虫型に見えたことから「イモ電」とも呼ばれていたが、一般的には「タルゴ」「ペコちゃん」の愛称が普及した。
1両のみで運行される場合と、2両連結で運行される場合があった。2両連結の場合、1967年より「連結2人のり」の標識が車外に取り付けられ、乗客は車両の前・最後部で乗車し、各車中央、連結寄り扉で降車していた。乗務員は運転手(1両目)と車掌(2両目)だけであった。この方式は現在も世田谷線で実施されている。
[編集] 砧線
砧線は軌道線として敷設されたが、1945年に地方鉄道法に基づく鉄道線に転換された路線である。
砧線は、玉川を発車後、ほぼ90度のカーブを描いて玉川通りを横断、現在の二子玉川小学校南側に存在した中耕地を経て西進、多摩堤通りを踏み切りで渡って吉沢に至り、吉沢橋で野川を渡り、東京都水道局砧下浄水場(旧渋谷町立浄水場)脇を通り、砧本村へ至っていた。吉沢~砧本村間の伊勢宮河原、大蔵の2つの停留所は戦前に廃止されている。
車両は玉川線と同型が用いられた。運賃は、軌道線である玉川線が線内のみの運賃体系であったのに対し、鉄道線となった砧線は他の鉄道線と通しで計算された。閉塞はスタフ閉塞を用いていた。
廃線後は、二子玉川と砧本村の間に、多摩堤通りや天神森橋を経由するバス路線が開設された。
砧線の線路跡地はおおむね道路(一部歩行者専用)になった。中耕地停留所跡地の歩道上には、砧線が走ったことを示すレリーフが埋め込まれ、駅跡には石碑が建てられている。吉沢橋東側の吉沢停留所跡に建つクリニックの敷地には、玉川電気鉄道の社紋の入った境界標が3本残る。砧本村バス待合所付近には、旧線路脇の石製の柵が残されている。
砧本村駅跡地は整備され、現在は世田谷区立鎌田二丁目南公園と東急バス折返場になった。開設時は東京府北多摩郡砧村にあり、停留所が設けられた付近が砧村の字本村であったことから、砧本村の名が付けられたものである。戦前、砧本村停留所前にわかもと製薬の工場があり、砧線はその通勤の足としても用いられた。わかもと製薬跡地は現在駒澤大学玉川校舎となっている。
[編集] 溝ノ口線
1927年7月15日に開業。当初は玉川線と線路が接続し、区間便のほか玉川線との直通運転もされていた。玉川~二子間は併用軌道(二子橋を参照)だが、二子~溝ノ口間は専用軌道で開業した。1943年に東急大井町線に編入された後、1945年に地方鉄道に転換、1966年に高架化されて二子橋の併用軌道が解消され、現在は東急田園都市線の一部となっている。
[編集] 年表
- 1907年3月6日 玉川電気鉄道(玉電)の路線として道玄坂上~三軒茶屋間開業。
- 1907年4月1日 三軒茶屋~玉川(二子玉川)間開業。
- 1907年8月11日 渋谷~道玄坂上間開業。
- 1920年3月27日 駒沢~用賀間複線化。
- 1920年9月11日 東京市電の規格に合わせるため、全線の軌間を1067mmから1372mmに改軌。
- 1920年10月31日 上馬~駒沢間複線化。
- 1921年6月11日 渋谷~渋谷橋間(後の東京都電路線)開業。
- 1923年2月18日 三軒茶屋~上馬間複線化。全線複線化完成。
- 1924年3月1日 玉川~砧間(支線、砧線)開業。
- 1924年5月21日 渋谷橋~天現寺橋間(後の東京都電路線)開業。
- 1925年1月18日 三軒茶屋~世田谷間(支線、現:世田谷線)開業。
- 1925年5月1日 世田谷~下高井戸間(現:東急世田谷線)開業。
- 1927年3月29日 渋谷橋~中目黒間(支線、後の東京都電路線)開業。
- 1927年7月15日 玉川~溝ノ口間(溝ノ口線)開業。玉電全通。
- 1937年 この年玉川線渋谷駅が建設中の玉川電鉄ビル(現在の東急百貨店東横店西館)2階に移転。渋谷以東が東横百貨店(現在の東急百貨店東横店西館)前に新設された東横百貨店前始発となる。これにより分割される。
- 1938年4月1日 玉川電気鉄道が東京横浜電鉄(現:東京急行電鉄)に合併される。
- 1938年11月1日 渋谷以東の路線が東京市電気局に委託される。(※ これにより東横電鉄の路線図・時刻・運賃表から渋谷以東の路線が消えるが完全に譲渡されるのは10年後である。)
- 1939年3月10日 玉川線玉川駅をよみうり遊園駅に改称。
- 1940年12月1日 大井町線二子玉川駅・玉川線よみうり遊園駅を統合し二子読売園駅に改称。
- 1943年7月1日 二子読売園~溝ノ口間(溝ノ口線)を大井町線に編入。
- 1944年10月20日 二子読売園駅を二子玉川駅に改称。
- 1945年8月15日 砧線及び大井町線編入区間を地方鉄道に変更。
- 1948年3月10日 渋谷以東の路線(渋谷~天現寺橋、渋谷橋~中目黒間)を東京都交通局へ譲渡。(※ 天現寺橋~渋谷橋~中目黒間が8系統(築地始発)、天現寺橋~渋谷橋~渋谷(渋谷駅前)間が34系統(金杉橋始発)として運行される。渋谷橋~中目黒間は1967年12月9日、天現寺橋~渋谷橋~渋谷間は1969年10月25日廃止。)
- 1954年8月1日 二子玉川駅を二子玉川園駅に改称。
- 1969年5月11日 三軒茶屋~下高井戸間を除いて廃止。残った区間は世田谷線となる。新玉川線開業まで代行バス運行開始。
※通常、路面電車は「駅」(「停車場」)では無く「停留場」「電停」と呼ぶが、ここでは便宜上「駅」を使用する。ただし、運行当時の玉電沿線では用賀等「駅」と呼ばれていた電停が多かった。現在の世田谷線も同様である。
[編集] 駅一覧
〔〕内は路線廃止時以前に廃止された電停
[編集] 玉川線
渋谷 - 〔道玄坂上〕 - 上通(かみどおり)- 〔大坂上〕 - 大橋 - 玉電池尻 - 三宿(みしゅく) - 〔東太子堂→太子堂〕 - 三軒茶屋 - 玉電中里 - 上馬(かみうま) - 真中(まなか) - 駒沢 - 弦巻→新町(※ 東横吸収合併後変更) - 桜新町 - 用賀 - 瀬田 - 〔身延山別院前→玉川遊園〕 - 玉川→よみうり遊園→二子読売園→二子玉川→二子玉川園
[編集] 砧線
二子玉川園 - 中耕地(なかこうち) - 吉沢 - 〔伊勢宮河原〕 - 〔大蔵〕- 砧→砧本村(きぬたほんむら)
[編集] 溝ノ口線
[編集] 譲渡路線
1948年に東京都へ譲渡された区間の駅は下記のとおりである。
- 天現寺線
- 渋谷 - 稲荷橋 - 並木橋 - 渋谷町役場前→渋谷区役所前 - 比丘橋(びくばし)- 恵比寿駅前(初代)→渋谷橋 - 恵比寿橋 - 新橋 - 豊沢橋 - 天現寺橋(てんげんじばし)
※1927年に中目黒線が開通した際恵比寿駅前停留所が別に新設されそれまでの恵比寿駅前停車場は渋谷橋停車場に変更した。1932年に大東京市制施行により渋谷区が誕生、渋谷町役場に渋谷区役所が置かれたため停留所変更した。 ※中目黒は、東横線中目黒駅とは接続しておらず、現在の山手通りと駒沢通りの交点(中目黒駅南側)にあった。
[編集] 玉電廃止後のバス交通
[編集] 代替バス
1969年5月11日に専用軌道のみの三軒茶屋-下高井戸間以外を廃止され、同日より東京急行電鉄が代替バスを運行した。代替バスは、旧玉川線・溝の口線・砧線の区間をおおむねなぞるものと、新町~瀬田間で玉川通り新道を進むものとが設けられた。新設された代替バス路線、及び補完路線の系統番号と行き先は次のとおりである。
- 渋01 渋谷駅 - 三軒茶屋(直通運転あり)
- 渋02 渋谷駅 - 用賀折返所(旧用賀停留所裏手にあたる。急行あり)
- 渋03 渋谷駅 - 二子玉川園駅(旧道経由)
- 渋04 渋谷駅 - 溝の口駅(旧道経由)
- 渋12 渋谷駅 - 二子玉川園駅/高津営業所(新道経由。急行あり)
- 渋13 渋谷駅 - 砧本村(新道・二子玉川経由)
- 渋14 渋谷駅 - 向ヶ丘遊園駅(新道・二子玉川経由)
- 渋21 渋谷駅 - 上町駅
- 玉06 二子玉川-砧本村
- 黒03 目黒駅-砧本村(清水線を二子玉川園~砧本村間延長)
旧道とは、新町~瀬田間で桜新町を経由する玉川通りの旧道のことであり、新道とは、同区間における現在の国道246号のことであり、旅客案内上、旧道経由・新道経由との表記が使用された。
目黒区大橋にあった大橋車庫は、玉川線廃止とともに、東急バス大橋営業所に転換され、同営業所は代替バスの運行を受け持った。但し渋04と渋14は高津営業所の所管路線であった。
二子玉川園駅-砧本村間のバスルートは、砧本村方向は廃線跡の南側・玉川高島屋北側の道路を吉沢まで進み、吉沢から廃線跡が転換された道路を進み砧本村にいたるルートで、二子玉川方向は、廃線跡から外れ天神森橋を渡り多摩堤通りを二子橋東詰まで進むルートを取り、8の字型の運行形態となった。
1977年、渋谷-二子玉川園間に新玉川線が開通し、これにより、上記に列挙した系統のうち渋12、玉06、黒03以外は廃止され、黒03ものち廃止された。渋12の急行運転は廃止された。渋14は用賀駅-向ヶ丘遊園駅に短縮された(向02)。玉06は二子玉川発着(駅前に入らない)から、のち二子玉川園駅発着に変更されている。
[編集] 玉電渋谷駅跡
玉川線の渋谷駅跡は、バス乗り場に転換され、渋70、渋24などのバス、及び東急百貨店東横店と本店を連絡する無料送迎バスが発着した。終端部分はターンテーブルでバスの向きを転換する方式であった。また、渋谷駅と道玄坂中腹を結ぶ旧専用軌道跡はバス専用道路となった。渋谷駅再開発事業に伴う渋谷マークシティの建設により、現在はこのターンテーブルのあるバス乗り場とバス専用道路はほぼ消滅したが、道玄坂の玉川線専用軌道入口部分は現在マークシティへの接続道路となっている。
国鉄山手線の玉川線への改札は「玉川改札」「玉川口」と呼ばれたが、玉川線もバス乗り場も消滅した現在でも、改札の名称は往時のまま残っている。
[編集] 外部リンク
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