立正佼成会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
立正佼成会 (りっしょうこうせいかい)は、法華系の新宗教である。約176万世帯(2005年12月31日現在)日本第2の規模を誇る教団。本部は東京都杉並区和田二丁目にある。
なお、よく間違えられるが、東京都品川区にある日蓮宗系の4年制私立大学、立正大学とは一切関係はない。
立正佼成会 | |
---|---|
創始者: | 庭野日敬 |
代表者: | 庭野日鑛 |
成立年月日: | 1938年(昭和13年)3月5日 |
本部所在地: | 東京都杉並区 |
信者: | 約176万世帯 ※2005年(平成17年)現在 |
ウェブサイト: | 立正佼成会 |
立正佼成会大聖堂(東京都杉並区) |
目次 |
[編集] 概要
[編集] 歴史
[編集] 方便教化(ほうべんきょうけ)の時代 (1938~1957)
- 霊友会の有力な信者(新井支部・副支部長)であった庭野鹿蔵と、庭野の勧誘で共に霊友会を信仰していた長沼政は、彼らが所属していた新井支部(当時は支部をまとめる責任者の名前で支部名が呼称されていた)支部長で熱心な法華経行者であった新井助信の強力な勧めもあって、1938年3月5日に「大日本立正交成会」(現在の名前に改称されたのは1960年6月1日)として創立される[1]。会の創立に当り、庭野鹿蔵は「日敬」、長沼政は「妙佼」と改名して戸籍登録した。
- 「揺るぎない信仰心」が培われた時代とされ、庭野日敬開祖会長(当時)と長沼妙佼脇祖(当時・副会長)の信仰指導[2]によって、いわゆる「貧病争」の苦しみから救われ、仏道精進に導くというスタンスで布教活動を行っていた。当時の日本は第二次世界大戦の影響で多くの人々が苦しい生活を強いられていた為、そのため会員の多くは直面する現実的な救われ(人生苦のの根本的解決)を求めて修行に励んだ。
- 一方で戦後急激に拡大した教勢に対しマスコミの耳目を集めることになり、1956年に『読売新聞』が本部用地の取得にあたって不正が行われたと報道。庭野が国会に召喚され事態を説明するに至っている。
1938(S13)
- 3.5 庭野日敬は長沼妙佼 他三十数名と共に立正佼成会(当時、大日本立正交成会)を創立。(会長 村山日襄、副会長 石原叔太郎)
- 3.20 庭野日鑛会長(当時、浩一)が誕生
1942(S17)
- 5.7 本部修養道場(現 発祥の地修養道場)落成・入仏式を挙行
1943(S18)
- 4月頃 村山日襄会長、石原叔太郎副会長がそれぞれ退任。後継として、実質の運営・指導者である庭野と長沼がそれぞれ「開祖会長」「副会長」となり、名実ともに庭野会長・長沼副会長体制がスタートする。
1945(S20)
- 11.15 本尊「久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊」を尊牌形式で勧請
1948(S23)
- 8.11 宗教法人令により、宗教結社「大日本立正交成会」から宗教法人「立正交成会」となる
1949(S24)
- 8.28 青年部(現在の青年本部)が発足
1951(S26)
- 6.5 信徒の母子が自殺(蔵敷事件)。後年、日弁連・人権擁護委員会がこの問題を取り上げる
- 10.17 新宗連(新日本宗教団体連合会)が発足、本会も加盟
1952(S27)
- 6.14 長沼基之が教団初代理事長に就任
1956(S31)
- 1月 読売新聞が本部用地取得における疑惑を報道。庭野が国会に召還され事態を説明するに至り、教団内部でも仔細に調査を行った[1]
- 4.30 衆院法務委員会に庭野日敬と長沼広志(佼成会・佼成学園理事)が参考人招致さる
1957(S32)
- 9.10 長沼副会長が遷化。満67歳 戒名は【諦生院妙佼善智慈道安徳信女】。庭野開祖の入寂を経て、のちに【脇祖妙佼慈道菩薩】となる 。葬儀・告別式は当時まだ小さい教団であった佼成会において、会員代表・各界の弔問来賓で延べ5千人の参列者を賜る
[編集] 真実顕現(しんじつけんげん)の時代 (1958~1977)
- 1957年9月10日に長沼が死去すると、宗教の役割は人生の悩みや苦しみを解決することだけでは無く、教義・指導によって人格の向上をめざし、幸せな家庭や平和な社会を築いていくことも重要と位置づけ、根本仏教や法華経の研鑽への回帰を強く打ち出し、活動の中心も法華経を背景とする先祖供養・教学研修・人間修養へと移していく。ちなみに教団では長沼存命中の期間を『方便教化の時代』・長沼死後~創立40年の期間を『真実顕現の時代』と呼称している。
- また、他の宗派・教団との連携や交流も早くから着手し、日蓮宗を初めとして[3]神社本庁、天台宗、妙智会教団、PL教団などとの交流も盛んに行った。また、庭野が提唱した「宗教対話」の精神に則り、世界宗教者平和会議(WCRP)、新日本宗教団体連合会(新宗連)には創立メンバーとして当初から参加している[4]。
1958(S33)
- 1.5 本会の本尊が「久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊」であることを宣言、『真実顕現の時代』を迎える
1960(S35)
- 6.1 名称を「立正交成会」から「立正佼成会」に改める
- 7.16 庭野開祖会長が大聖堂(現 本部修養道場)に勧請する本尊像に納める法華三部経の写経を箱根の三昧荘にて始める
1962(S37)
- 6.1 会員綱領を発表(これは立正佼成会青年部綱領を基に加筆したもの)
1963(S38)
- 9.14 庭野開祖会長が「核兵器禁止宗教者平和使節団」副団長として欧米諸国を訪問。ローマ教皇パウロ6世と会見し平和提唱文を手渡す
1964(S39)
- 5.15 大聖堂(本部修養道場)落成式典
- 6.30 青年信徒約30人を連れて統一教会長となった、元青年部・渉外部長の久保木修己が除籍さる(松野純孝・新宗教辞典)
1965(S40)
- 9.14 庭野開祖がイタリアのローマで開かれた第二バチカン公会議の開会式に出席。ローマ教皇パウロ6世と会見
1969(S44)
- 4.27 高松市で第1回「明るい社会づくり運動推進大会」を開催
- 7.18 庭野開祖会長が第20回IARF(国際自由宗教連盟)世界大会に出席
1970(S45)
- 4.28 普門館落成式典
- 10.16 第1回WCRP(世界宗教者平和会議)が京都で開催され、この会の提唱者でもある庭野開祖会長が共同議長を務める
- 12.18 ベトナム戦争激化の折、庭野開祖会長が「日本宗教連盟ベトナム視察団」団長として出発
1973(S48)
1974(S49)
- 8.28 第2回WCRP(ベルギー・ルーベン)に本会も参加
1975(S50)
- 3.5 庭野開祖がミードビル・ロンバード神学大学院から名誉法学博士号を受ける
- 4.8 フィリピン・バターンにフレンドシップ・タワーを建立
1976(S51)
1977(S52)
[編集] 普門示現(ふもんじげん)の時代 (1978~1997)
この時代はあらゆる人々に法華経の教えを弘め、それまでの教義教育・指導での研鑽による人間修養を行いつつ、地域社会・世界平和の実現に向けて積極的に貢献していく活動にシフトして行った。これにより全国各地で「一食(いちじき)を捧げる運動」や「アフリカへ毛布をおくる運動」、「ユニセフ街頭募金」などが始まり、会員たちはこれらを市民運動化へと目指し取り組むようになる。またWCRP(世界宗教者平和会議)を中心に軍縮や核兵器の廃絶運動など、宗教協力を基盤とした平和活動を次々と展開していった。
1978(S53)
- 1.1 教団創立40周年、『普門示現の時代』を迎える
- 6.12 庭野開祖会長がWCRPの名誉議長として第1回国連軍縮特別総会で演説
1979(S54)
- 4.9 庭野開祖会長が「テンプルトン賞」を受賞(これは所謂、宗教界のノーベル賞と言われている。)
- 8.29 第3回WCRP(アメリカ・プリンストン)に本会も参加
- 10.2 庭野開祖会長が「一食を捧げる運動」の国民運動化を訴える
1980(S55)
1981(S56)
- 6.29 同宗連(『同和問題』にとりくむ宗教教団連帯会議)が発足し、本会も加盟
- 10.5 平和主義の推進、信教の自由の堅持、政治倫理の確立、行政改革の推進など本会の政治理念を鈴木善幸首相(当時)や各党首に表明
- 11.7 第2回ACRP(アジア宗教者平和会議)がインドのニューデリーで開催され、本会も参加
1982(S57)
- 5.23 新宗連(新日本宗教団体連合会)の「核兵器廃絶軍縮署名運動」に参加
- 6.24 庭野開祖会長がIARF(国際自由宗教連盟)会長として第2回国連軍縮特別総会で2度目の演説
1983(S58)
- 4.7 第1回「庭野平和賞」贈呈式。受賞者はブラジルのヘルダー・P・カマラ大司教
1984(S59)
- 7.27 第25回IARF世界大会を本会で開催
- 8.23 第4回WCRPをケニアのナイロビで開催
- 12.15 官民合同による「アフリカへ毛布を送る会」発足。その後、現在の「アフリカへ毛布をおくる運動」に発展
1986(S61)
- 3.20 庭野日鑛次代会長がローマ教皇庁立サレジオ大学から名誉哲学博士号を受ける
- 6.17 第3回ACRP(韓国・ソウル)に本会も参加
- 10.27 「アッシジ平和祈願の集い」(イタリア)に庭野会長が出席
1987(S62)
1988(S63)
- 3.5 教団創立50周年記念式典挙行
- 6.8 庭野開祖会長が立正佼成会会長として第3回国連軍縮総会で3度目の演説
1989(H元)
1991(H3)
- 1.18 湾岸戦争の勃発に対し、WCRP日本委員会が庭野日敬理事長名で「緊急アピール」を発表
- 10.29 第4回ACRP(ネパール・カトマンズ)に本会も参加
- 11.15 法燈継承式で庭野開祖会長の長男である庭野日鑛が第二代会長に就任
- 12.26 中央学術研究所が脳死臨調に「脳死移植に関する意見書」を提出
1992(H4)
- 2.8 庭野会長が第二代会長就任後、初の全国巡教がスタート。青年本部に「国際人材塾」「グローバル・ボランティアズ」を開設
- 6.7 庭野会長がアメリカ・シカゴのミードビル・ロンバード神学大学院から名誉神学博士号を受ける
- 10.26 新宗連全国総会で庭野開祖が名誉理事長に、庭野会長が副理事長に就任
- 11.15 庭野開祖がローマ教皇庁から「大聖グレゴリウス勲章」を受章
1993(H5)
1994(H6)
- 1.1 教団副理事長の内田昌孝が第二代理事長に就任。これにより永年理事長職を務めていた長沼基之は教団特別顧問に就く
- 6.1 中央学術研究所が「臓器の移植に関する法律案」への見解発表
- 11.3 第6回WCRP(イタリア)に本会も参加
- 11.17 庭野会長が長女の光代を会長後継者に指名、法名「光祥」を発表
1995(H7)
- 1.17 阪神・淡路大震災で教団本部と現地に災害対策本部を設置。医療団とボランティア隊を派遣し、包括している神戸教会道場を避難所として一般開放した。
- 10.5 宗教法人法の改正に対する「意見書」を発表
- 10.9 田沢智治法務大臣<当時>(佼成学園理事)が辞職。佼成会から借用した2億円を政治資金規正法による処理をしなかったことと、当時野党第一党だった新進党に代表質問でこの問題を取り上げないよう裏取引しようとしたことが原因。
1996(H8)
1997(H9)
[編集] 現在 ~ 一人ひとりの心田を耕す佼成会
- 教団創立60周年(1998年)を契機に、教団方針として「一人ひとりの心田を耕す」を新たに目標に掲る。要約すると、「無常」という仏教の真理(法)を認識し、いのちの尊さに目覚めていくことを意味する。そして、その喜びを一人でも多くの人々に伝え、みんなが共に幸せを味わえる世界を築いていくことを目指すとある。
1998(H10)
- 1.1 「会規」を改正、施行
- 3.5 教団創立60周年。総合目標「一人ひとりの心田を耕す佼成会」を掲げる
1999(H11)
- 7.2 自自公連立政権に対する教団見解を発表 (これは、創価学会を支持母体とする公明党が、それまで会として政治的に支援してきた自民党と連立与党に参加し、次第に党を通じて信仰姿勢、教団のスタンスや政治との関わりで相対する創価学会が政府や民間においての影響力が増す事態を踏まえての教団としてのスタンスを内外に向けて発表したもの)。
- 10.4 庭野日敬開祖が入寂。満92歳 戒名は【開祖日敬一乗大師】10月10日に挙行された「葬儀・告別式」には会員代表・国内外の各界からの弔問客で本部大聖堂に延べ6万人参列する盛大なものとなった。また全国の各教会と海外の拠点に向けて衛星回線による生放送が配信され、「開祖葬」として挙行された。
- 11.25 第7回WCRP(ヨルダン・アンマン)に本会も参加
2000(H12)
- 10.1 庭野開祖を顕彰する一乗宝塔が建立
2001(H13)
- 4.11 同宗連(「同和問題」にとりくむ宗教教団連帯会議)結成20周年式典に本会も参加
- 7.9 「靖国神社参拝」に対する意見書を小泉純一郎首相に提出
- 9.2 聖エジディオ共同体主催の「世界宗教者平和のための祈りの集い」(スペイン・バルセロナ)に本会も参加
- 9.15 庭野会長が「アメリカ同時多発テロ事件」に対し、哀悼の意を捧げる緊急談話を発表
- 10.17 新宗連(新日本宗教団体連合会)結成50周年式典に本会も参加
- 10.23 庭野会長が「米国・同時多発テロ事件」をうけ、WCRP主催の「世界の諸宗教指導者による国際シンポジウム」に参加
2002(H14)
- 1.1 教団総務部長の山野井克典が第四代理事長に就任
- 1.24 庭野会長が「平和祈願の日」(イタリア・アッシジ)に参加
- 4.7 長沼特別顧問逝去
- 6.3 スリランカ上座部仏教四法王の連名による平和共同宣言文「東京声明」が発表され、本会も支援
- 6.24 第6回ACRP(インドネシア・ジョグジャカルタ)に本会も参加
- 7.28 第31回IARF世界大会(ハンガリー・ブタペスト)に本会も参加
- 8.3 比叡山宗教サミット15周年記念「平和への祈りとイスラムとの対話集会」に本会も参加
2003(H15)
[編集] 政治へのスタンスと関わり
- 政治的には、当初自由民主党を中心に旧新自由クラブや民社党の候補者も支援していた。しかし、自民党が創価学会を母体とする公明党と連立政権を組むと、創価学会との対立関係から自民党からは距離を置き、教団としての統制を緩め選挙区単位で政策の利害が一致する候補者(その対象が野党民主党候補である場合もある)を支援するようになった。具体例2004年の参院選では民主党から全国比例区で初出馬した藤末健三を支援し、当選後も機関紙に定期的に投稿するなど関係を強めている[5]。
- 因みに会として宗教者が直接政治に関与するという行為を認めていない。つまり立正佼成会本部の管理職以上(教庁の課長や全国の各教会長)の職員が議会議員や首長になったり、また選挙に立候補する事を認めていない。
[編集] 教義
西田無学が提唱した在家による法華経の先祖供養を行うという点では霊友会と同じだが、法華経に基づく教義や根本仏教、開祖法話による人間の内面の修養を行いつつ、自他共に救われる修行の推奨(教団では「心田を耕す」と呼称している)など、教団独自の特色が色濃く出ている。
[編集] 活動等
社会奉仕活動が活発で、先項記述の「一食を捧げる運動」、「ユニセフ街頭募金」、「アフリカに毛布を送る運動」など教団を挙げて行う活動と各教会単位で清掃奉仕、施設慰問、障害者者施設の奉仕作業など行われている。 また毎年5月の第三日曜日を「青年の日」とし、全国の青年部員が各教会単位で企画準備したイベント、奉仕作業、街頭募金などが行われており、この日の正午に「平和の祈り」という黙祷を捧げ、立正佼成会の平和活動の一翼を担っている。
また他団体との積極的な交流を行い、入信への強引な勧誘を行わない等、法華系新宗教の中では穏健派といわれる。
[編集] 関連項目
- 東京佼成ウインドオーケストラ
- 普門館 … 過去にH.V カラヤン指揮のベルリンフィルが演奏したことで知られており、長年全日本吹奏楽コンクール(主催 全日本吹奏楽連盟・朝日新聞社)全国大会の中学校の部・高等学校の部の演奏会場となっている[6]。
[編集] 病院
- 立正佼成会付属佼成病院
[編集] 文化施設・学校
- 佼成学林
- 芳澍女学院情報国際専門学校
- 佼成育児園(幼稚園)
- 佼成学園中学校・高等学校
- 佼成学園女子中学校・高等学校
- 府中佼成幼稚園
- 佼成図書館
- 妙松苑
- 佼成霊園
[編集] 出版
- 佼成出版社
[編集] 保険
- 立花産業
[編集] 参考文献
- 井上順孝 『現代宗教事典』ISBN 4335160372
- 井上順孝 『新宗教・教団人物事典』ISBN 4335160283
- 井上順孝 『新宗教事典』ISBN 4335160259
- 松野純孝『新宗教辞典』(東京堂出版)
- 朝日新聞社 『二十世紀の千人8』ISBN 4022586060
- 溝口敦 『宗教の火遊び』ISBN 4093893942
- 別冊宝島461号『「救い」の正体』ISBN 4796694617
- 別冊宝島編集部『「カルト」の正体』宝島社文庫 ISBN 4796616853
- 『人権事件警告・要望例集』(1977日本弁護士連合会人権擁護委員会 )
- 『日弁連 人権侵犯申立事件警告・勧告・要望例集』明石書店 ISBN 4750322172
[編集] 註
- ^ 因みに初代会長は村山日襄、副会長は石原叔太郎(ともに国柱会の出身)であったが、実質の会の運営は庭野・長沼のコンビで運営されていた
- ^ 主に霊能や法華経読経による先祖供養・九星による方位学や五大真理による姓名鑑定など
- ^ 池上本門寺のお会式の参加や身延山久遠寺・小湊 誕生寺の団体参拝は今でも行われている
- ^ 1963年には、核兵器禁止宗教者平和使節団の一員として庭野が訪欧、時のローマ教皇パウロ6世と謁見するなど、仏教の枠組みを超え他の宗教とも積極的に交流を重ねた
- ^ 他に、前朝鮮日報 【韓国4大新聞の一つ】 日本支社長の白真勲も同時に推薦を受けて参院選に出馬・当選を果した。また2001年の参院選では新党・自由と希望を結党して出馬した白川勝彦を支援したものの落選に終わっている
- ^ 吹奏楽活動をしている中高生の間では「吹奏楽(またはブラスの)甲子園」とも言われ、高校球児が甲子園を目指すように日夜「目指せ普門館」で練習に励んでいるとも言われている