第三次対仏大同盟
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第三次対仏大同盟(だいさんじたいふつだいどうめい, Third Coalition, 1805年4月11日 - 1806年)は、ナポレオン1世が支配するフランス帝国の覇権に挑戦するため、ヨーロッパ諸国が結成した同盟。革命後のフランスに対抗するものとしては3度目だが、ナポレオンのフランス帝国に対抗するものとしては最初の同盟である。
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[編集] 同盟
1803年5月、イギリスはアミアンの和約を破棄してフランスへ宣戦布告した。これをもってフランス革命戦争とナポレオン戦争との区切りとされる。以降、イギリスは海上封鎖を展開し、フランス経済に打撃を与えた。1805年、ナポレオンはイギリスを屈服させるため、イギリス本土への侵攻作戦を計画、ドーバー海峡に面したブローニュに18万の兵力を集結させた。これに対抗するため、1805年4月11日、イギリスは各国と同盟を結成した。ただしプロイセンは中立的な立場を取った。
第三次対仏大同盟に参加した国家は以下のとおりである。
[編集] 1805年オーストリア戦役
[編集] 海戦
イギリス本土へ侵攻するためには、ドーバー海峡の制海権を獲得しなくてはならなかった。ナポレオンはスペインと協力して多数の軍船と輸送船を建造した。さらにイギリス海軍の戦力を分散させるため、イギリス領西インド諸島の攻撃を計画、ヴィルヌーブ率いるフランス・スペイン連合艦隊を派遣した。しかし、西インド諸島への攻撃は失敗に終わった。さらにヴィルヌーブ艦隊は本国への帰路で、カルダー率いるイギリス艦隊と交戦、7月22日のフィニステーレ岬の海戦に敗れ、カディス港へと避退した。
8月、内陸部での戦闘のため、ナポレオンはブローニュの兵員をライン方面へ移動させた。事実上、この時点でイギリス侵攻作戦を断念したのである。10月19日、フランス艦隊がナポリへ向けて出航すると、ネルソン率いるイギリス艦隊がこれを捕捉し、10月21日、トラファルガーの海戦でフランス艦隊を撃破した。海戦によりイギリスはネルソン提督を失ったが、フランスの海軍力は大きく減退させられ、ナポレオンは制海権の奪取は不可能と判断し、イギリス侵攻作戦を完全に中止した。
[編集] 陸戦
フランス軍はブローニュに結集していたため、内陸部の防備は手薄だった。オーストリアはこの隙を狙って戦端を開き、レイベリヒ率いる7万のオーストリア軍主力がバイエルンへ、カール大公率いる部隊がイタリアへ侵攻を開始した。続けてクトゥーゾフ率いるロシア軍もバイエルンへ侵攻、両軍は協同してバイエルン軍を撃破し、ミュンヘンを陥落させた。
8月29日、フランス軍の大部隊はブローニュを離れ、600キロメートル余りの行程を当時の軍事常識を超えるスピードで大移動し、9月末にはライン方面に集結した。フランス軍の動向を全く掴んでいなかったレイベリヒはウルムまで軍を前進させたが完全に不意を衝かれることになった。9月25日から10月20日に及ぶウルムの戦いにおいて、フランス軍はオーストリア軍の戦略的包囲に成功し、10月20日にレイベリヒを降伏に追い込んだ。フランス軍はオーストリアへ侵攻し、11月14日にウィーンに入城した。
これに対しロシア軍はオーストリア軍残存部隊と合流して決戦を挑んだ。ナポレオンの即位1周年にあたる12月2日、モラヴィアのアウステルリッツ郊外のプラツェン高地で、フランス軍とオーストリア・ロシア連合軍が激突した。このアウステルリッツの戦いにおいて、ナポレオンは優勢な敵に対し、後に芸術と評される采配を振るう。味方の弱点をわざと攻撃させて敵の中央部に隙を作り、集中攻撃をかけて突破、完勝した。この戦いはフランス皇帝ナポレオン1世、ロシア皇帝アレクサンドル1世、神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世の3人の皇帝が1つの戦場に会したことから「三帝会戦」とも呼ばれる。12月4日、フランツ2世はナポレオンと会見し、休戦協定に合意した。
[編集] 戦後処理
トラファルガーの海戦の結果、フランス軍によるイギリス本土への脅威は薄れたが、大陸における覇権を覆すには至らなかった。12月26日、オーストリアはプレスブルクの和約を締結し、フランスと講和、同盟から脱落した。
1806年、ナポレオンはナポリ王国を征服し、兄ジョゼフ・ボナパルトをナポリ王に即位させた。これによってナポリ王国も同盟から脱落し、事実上、第三次対仏大同盟は崩壊した。さらにナポレオンは親フランスのライン同盟を結成し、神聖ローマ帝国を解体させた。フランスの覇権は中部ドイツまで及ぶこととなったが、こうした強引なやり方は、それまで中立を保ってきたプロイセン王国の警戒心をあおり、第四次対仏大同盟の結成へ動き出させることとなった。