ピエトロ・バドリオ
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ピエートロ・バドリオ(Pietro Badoglio, 1871年9月28日-1956年11月1日)は、イタリア王国の首相(在任:1943年7月25日 - 1944年6月10日)。軍人、元帥。
[編集] 生涯
ピエモンテ地方の町グラッツァーノ・モンフェッラート(現在のグラッツァーノ・バドリオ)に生まれる(アレクサンドリアで誕生、という資料もある)。イタリア軍に入隊の後、トリノの士官学校を卒業。1889年から始まった第一次エチオピア戦争には青年将校の1人として従軍。1896年3月1日のアドワの戦いでは、味方の決定的大敗北の最中、撤退する友軍の掩護に活躍。司令官であったオレステ・バリティエッリが批判に晒され失脚する中、掩護の活躍が認められ少佐に進級した。
1914年からの第一次世界大戦では歩兵師団の参謀長や軍団長などを歴任。1916年には少将に進級した。オーストリア・ハンガリー帝国との休戦条約交渉ではイタリア全権となって条約締結にこぎつけた。
1919年、イタリア軍参謀総長に就任。1922年ベニート・ムッソリーニのローマ進軍に反発する発言を行い、軍を追放され、ブラジル大使として左遷された時期を除いて1928年までその地位にあった。その間の1926年に元帥に昇進。1928年にはサボティーノ侯爵を襲爵する。
1928年から1933年までリビア総督。1935年から始まった第二次エチオピア戦争では、はじめは直接にはこの戦争には関わっていなかったが、11月に入り、戦果の上がらないエミリオ・デ・ボーノの目付け役とも言うべき高等弁務官として従軍。間もなく、デ・ボーノに代わってイタリア軍総司令官となった。総司令官となっても戦局は一向に動かなかったが、バドリオは毒ガス散布と、焼夷弾を使った小規模な戦略爆撃という「飛び道具」を使って、戦局を一気にイタリア軍有利に動かした。
1936年5月5日のアディスアベバ陥落によって戦争が終わると、イタリア領東アフリカ帝国の副王、次いでアディスアベバ公爵の称号を国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世から賜った。その後は第二次世界大戦参戦前まで再び参謀総長として登用されたが、イタリア軍の貧弱さを理由に参戦には反対し、すべての職を辞してしばらくの間は隠遁生活を送った。
ナチスドイツの電撃戦による破竹の勝利に乗っかり第二次世界大戦に参戦したイタリアであったが、ギリシャや北アフリカでのイタリア軍の屈辱的な敗北が続き、ムッソリーニの求心力は著しく低下した。1943年に入り、イタリアの敗北は火を見るより明らかとなった。7月24日、5年ぶりとなるファシズム大評議会がヴェネツィアで開かれ、古参ファシストのディーノ・グランディ伯爵が提出した「統帥権の国王への返還」の動議が過半数の賛成を得て成立。ムッソリーニは7月25日、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世にその旨報告したその場で拘束。ムッソリーニ失脚により、バドリオはヴィットーリオ・エマヌエーレ3世によって首相に任命された。
バドリオは就任演説で「戦争は依然続く。伝統を守れ」云々と言ったものの、その一方で密かに連合国側との秘密裏の休戦交渉を開始していた。一方、アドルフ・ヒトラーもバドリオの寝返りを警戒し、ブレンナー峠などに軍を集結させ、イタリアが寝返った暁にはイタリアを占領できる体制を整えた。バドリオはファシスト党の解散を命令し、リスボンやマドリードのイギリス大使館を交渉窓口として折衝を重ねた。アメリカ代表コーデル・ハルらの強硬意見に難渋しつつ、1943年9月3日には秘密休戦協定が結ばれ、ローマは無防備地域とされることになった。
ところが、9月8日に連合軍総司令官ドワイト・アイゼンハワーがイタリア側の了承なしにイタリアの無条件降伏を発表。ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世とバドリオ以下イタリア政府は驚愕し、ローマは無防備地域に指定されていたので南部のブリンディジに避難した。ローマはドイツ軍に占領され、イタリアは混乱に陥った。10月に入り、バドリオはドイツに対し宣戦を布告。細かい内閣改造を数度行った後1944年6月9日の連合軍によるローマ占領に呼応してローマに帰還するも、ローマを放り出したことで国民の支持を失っていたバドリオは、帰還を機にイヴァノエ・ボノミに首相の座を譲り、以後一切の公職から身を引いて表舞台に姿を見せることなく、85歳で亡くなった。
[編集] 参考文献
- 三宅正樹ほか編「イタリアの降伏とバドリョ政権の成立」『第二次大戦と軍部独裁,昭和史の軍部と政治4』1983,第一法規