翔鶴 (空母)
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艦歴 | |
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起工 | 1937年12月12日 |
進水 | 1939年6月1日 |
就役 | 1941年8月8日 |
退役 | |
その後 | 1944年6月19日戦没 |
除籍 | |
性能諸元 | |
排水量: | 基準:25,675トン |
全長 | 257.5m、飛行甲板長:242.2m |
艦幅 | |
全幅 | |
吃水 | |
機関 | 160,000 shp |
最大速 | 34.2 ノット |
航続距離 | 18ノットで9,700海里 |
乗員 | 士官、兵員1,660名 |
兵装 | 40口径12.7cm連装高角砲8基 |
艦載機 | 84機(艦戦18、艦攻27、艦爆27+補用12) |
翔鶴(しょうかく)は、旧日本海軍の航空母艦。翔鶴型航空母艦の1番艦。アメリカのエセックス級やイギリスのイラストリアス級と同様、ワシントン条約終了後に設計建造されたため、必要かつ十分な装備を持つ大型空母として完成した。1944年6月のマリアナ沖海戦で米潜水艦に撃沈された。
目次 |
[編集] 艦歴
1937年(昭和12)に発表された第三次艦船補充計画によって建造を計画された。日本海軍が建造した艦隊型正規空母の決定版ともいうべき、大型正規空母である。日本の軍艦としては、初めて球状艦首(バルバス・バウ)を採用し最大速力34kt の高速性を得、大和型戦艦をも上回る16万馬力という大出力の機関部や弾薬庫などの艦主要部は巡洋艦の砲撃に十分耐えられるよう装甲が施され、炸薬量450kg の魚雷にも耐える水雷防御が施されるなど充実した性能を持つ。しかし飛行甲板の装甲は有しておらず、爆弾が命中すると航空機の運用ができなくなることがあった。また航空戦隊として瑞鶴との作戦行動時には決まって本艦が損害を引き受けることになり、損害担当艦もしくは被害担当艦などという不名誉なニックネームをつけられることもあった。 武勲空母として有名になった同型艦空母瑞鶴に比べ被害を受ける事が多く戦線離脱する事が多かったが、戦績を比較すれば瑞鶴とそれほど大差無く、太平洋戦争中における、傷付きながらも奮戦した武勲空母と称するに相応しいと云う評価もある。
1937年12月12日、横須賀海軍工廠にて起工。1939年6月1日、進水。1941年8月8日、就役。
竣工後は直ちに連合艦隊に所属し、姉妹艦瑞鶴と共に第5航空戦隊を編成し真珠湾攻撃に参加。ラバウル作戦やセイロン沖海戦などに参加した。珊瑚海海戦ではアメリカ海軍の空母レキシントンを撃沈、ヨークタウンを大破させるも自らも3発の命中弾を受け戦線離脱。このためミッドウェー海戦には参加しなかった。その後も第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦などで活躍。南太平洋海戦でも爆弾を受けて大きな損害を出した。その後マリアナ沖海戦に参加し1944年6月19日、飛行機発進中に米ガトー級潜水艦カヴァラ (USS Cavalla, SS-244) からの魚雷4発を受け、魚雷被弾時に気化した航空燃料が艦内に充満し、それに引火し大火災を起こし沈没した。(大鳳と類似する。)
なお、翔鶴と瑞鶴は識別が困難(搭乗員でさえ着艦を間違えた)であるが、艦橋直後のメインマストの中途にスピーカー(本によっては探照灯とも記載されているが、おそらく見間違いであろう)を備えているのが瑞鶴である。
空母翔鶴の武勲を仰ぎ、海上自衛隊舞鶴基地では、舞鶴と羽ばたく鶴(翔鶴)を掛け合わせて舞鶴翔鶴太鼓を結成し、広報活動に従事している。