胡錦濤
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胡 錦濤 | |
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2002年5月、ペンタゴンにて会議中の胡 錦濤 |
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プロフィール | |
出生 | 1942年12月21日 |
出身地 | 江蘇省 |
職業 | 政治家 |
各種表記 | |
簡体字 | 胡锦涛 |
繁体字 | 胡錦濤 |
ピン音 | Hú Jǐntāo |
和名表記 | こ きんとう |
発音転記 | フー・チンタオ |
ラテン字 | Hu Jintao |
胡 錦濤(こ きんとう、フー チンタオ)、北京語ピン音: Hú Jǐntāo, 1942年12月21日 - )は、中国の政治家。 中華人民共和国主席、中国共産党総書記、国家中央軍事委員会主席、中国共産党中央軍事委員会主席。 清華大学卒業。
1942年江蘇省姜堰に生まれる(祖籍は安徽省績渓)。1956年7月江蘇省泰州市第二初級中学(中学校)卒業、1959年7月泰州中学(高校)卒業。1964年中国共産党に入党し、また清華大学水利工程系卒業。水力発電所の技師となる。安徽省の共産党青年同盟で政治活動を始め、抜群の記憶力で急速に昇進の道を歩んだ。
目次 |
[編集] 経歴
- 1984年11月には安徽省の共産党青年同盟の最高指導者に就任。
- 1985年9月、中共中央委員会の常任委員に昇進。
- 同年、貴州省の共産党書記に抜擢される。(42才)
- 1989年1月、チベット自治区の共産党書記に就任。
- 1989年3月7日、ラサに戒厳令を布告する。 当時のチベットは独立を求める民族独立運動が激しくなりつつあり、この運動を押さえ込むよう弾圧すべしとの共産党中央の基本政策に忠実に従い、党指導部の信頼を勝ち得た。
- 1989年6月、天安門事件が勃発した際も、その民主化運動のチベットへの波及を防御するため、ラサを戒厳令下に置いた。 チベット自治区の最高責任者にあった4年間、「1.分離主義の弾圧、2.経済建設を推進」する政策を実行し成果をあげた。
- 1990年10月、チベット軍区中国共産党委員会の第一書記の兼任を任命される。
- 1992年10月、中共中央政治局常務委員に任命される。
- 1997年9月、第一五回党大会で政治局常務委員に再選。
- 1998年3月、全人代で国家副主席に選出。
- 1999年9月、軍事委員会副主席に選出。
- 2003年11月15日、中共第16期中央委員会第1回全体会議(第16期1中全会)にて、新総書記に選出され、中国の最高権力者の地位に上った。
- 2004年9月19日、中共第16期中央委員会第4回全体会議(第16期4中全会)で、党の中央軍事委員会主席に就任し、党・政府・軍の権力の全てを事実上掌握した。
- 2005年3月13日、全人代で国家中央軍事委員会主席に選出。
中華人民共和国 |
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主な出来事 人物 理念 統治機構 |
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[編集] 事績
チベット問題を武力で押さえ込むことで党指導部の信頼を得ることに成功し、権力の座への階段が開けた。
就任当初、胡錦濤は中国国内でも海外でも開明的なイメージでもって紹介されることがあったが、国内の諸問題に対しては強権的な態度で臨まなければならない事態も起きている。
1990年代以降、中国社会では改革開放政策に起因する経済的な地域格差の拡大、また貧富の差の拡大などの矛盾が表面化し始め、それが官僚の腐敗、民族対立などと相まってデモ・暴動・騒乱が増加し、胡錦濤が最高実力者になってからは海外でも大規模な暴動が報じられるようになった。特に2004年10月末に発生した四川省漢源の暴動は建国以来最大規模のものだった。
また、中国では地方の住民が中央政府に対し地域の諸問題を直訴する制度があるが、これら陳情団が拘束されたり、極端な場合は殺害されることもある。
胡錦濤の党内での権力基盤にも変化が生じ始めた兆候も見られる。
1990年代の江沢民政権期、中国国内の教育は愛国的な色彩を強め、インターネットが普及すると「愛国者同盟網」「中国民間保釣連合会」「反日先鋒」など愛国的な団体の運営するウェブサイトが立ち上げられるようになった。これら有力な愛国的サイトは民衆の社会不満を政治運動に結びつける可能性があり、胡錦濤が党総書記に就任して以降閉鎖や活動停止に追い込まれた。
ところが、これらの愛国団体のウェブサイトは2005年春以降次々と復活し、各種メディアでも愛国的な記事や戦時中の日本軍の侵略行為の特集が見られるようになった。また、各地に「旧日本軍がおこなった残虐行為」を掲示する記念館や博物館を大量に建設しはじめた。
同年4月には北京で反日デモが発生し、一時政府の制御が及ばない事態となった。翌5月、日本の産経新聞や香港紙「成報」は、胡錦濤が党内の保守派に詰め寄られたという記事を掲載した。胡錦濤が影響力を持つ「中国青年報」は愛国的な報道を控えていたが、翌6月には他紙と同様の傾向を見せるようになった。中国では法制上あらゆるメディアが中国共産党の意向を受け入れなければならないため、「中国青年報」の変化や愛国的サイトの復活は胡錦濤が党内の保守的なグループに一定の譲歩をしたことを示している。
その後の胡錦濤は権力基盤の強化で一定の成功を収めている。同年8月には人民解放軍の機関紙「解放軍報」が胡錦濤を称賛する記事を連日掲載するようになり、これは胡錦濤が軍部との間に協力関係を築いたことを示している。2006年9月には陳良宇上海市党委員会書記が汚職の疑いで解任され、胡錦濤の政敵となりうる最大のグループが勢力を失った。
2003年以降の中国の輸出拡大により、米国など諸外国から中国に対し人民元の切り上げまたは変動相場制移行を求める声が強まっている。国内経済の軟着陸は胡錦濤政権の課題の一つであるが、人民元切り上げは中国経済に大きな影響を及ぼしかねないため、胡錦濤政権はこの問題に対し慎重な姿勢を示している。
国内の経済や産業の安定した発展、不平等の改善、社会不安の解消など取り組むべき問題は多く、胡錦濤政権は難しい舵取りを迫られている。
[編集] 来日歴
[編集] 家族
1970年に大学同級生の劉永清(北京出身)と結婚、1971年に長男、1972年に長女を儲けている。
[編集] 外部リンク
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