マルクス・レーニン主義
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マルクス・レーニン主義(マルクス・レーニンしゅぎ)とは、マルクス主義の一つの潮流で、ロシア革命の指導理念としてボリシェビキの指導者ウラジーミル・レーニンが案出したもの、またそれを一般化・普遍化した思想。ボリシェビズム、ロシア・マルクス主義ともいう。「マルクス・レーニン主義」という言葉は、レーニンの死後スターリンによって提唱されたものである。略してML主義とも表記する。
目次 |
[編集] 理論
[編集] 世界認識
- 帝国主義論
- 資本主義は、資源と労働力と市場の確保のため、植民地争奪戦争を必然化するとする。
- 無神論
- 「宗教は民衆のアヘンである」とのマルクスの言葉を踏襲し、宗教の存在を否定する。階級社会が発生して以来、支配階級は、民衆の目を厳しい生活からそらさせるため、常に宗教を利用してきたからである、とする。実際に、ロシア革命以降、諸宗教の数多くの教会が破壊され、聖職者及び信徒が虐殺された。マルクス・レーニン主義者の、宗教に対する否定的な姿勢は、戦闘的である。これはスターリン時代にも受け継がれ、『戦闘的無神論者同盟』などが組織された。
[編集] 戦略論
- プロレタリア独裁
- 革命後、全ての生産手段が社会化される共産主義に至るまでの時期には、反革命勢力となるブルジョワジーが残存しており、革命勢力であるプロレタリアートは奪った権力を行使して、これを抑圧しなければならないとする。後にスターリンはマルクス・レーニン主義を定式化するにあたり、レーニンにおいては共産主義に至る前段階であったプロレタリアート独裁期を社会主義であるとした。
- レーニンにとって「独裁」とは、「いかなる法にも、いかなる絶対的支配にも拘束されることのない、そして直接に武力によって自らを保持している、無制限的政府」のことであった。そのため、チェーカーなどの抑圧機関が無制限に国民の粛清を行った。「目的は手段を正当化する」、というセルゲイ・ネチャーエフの影響が強い。
- 永続革命論
- 一国でプロレタリアートの政権が成立しても、目標を実現したことにはならず、目標は全世界で共産主義社会を実現することにあるとする世界革命論を発展させ、一国でのプロレタリアートの政権の成立はそれだけでは社会主義社会への移行には不十分で、特に後進国の場合プロレタリアートの政権の維持そのものために、他国での連続した革命が必須であり、それを可能にするためには最初からプロレタリアートが革命をリードする必要があり、また既に権力の奪取が成功した国では止むことのない改革が必要であるとした。レーニンは当初、二段階革命論を主張し、永続革命論を主張するトロツキーと対立していたが、帝政の崩壊後永続革命論の立場に転じ四月テーゼを発表した。一国社会主義を標榜するスターリンはマルクス・レーニン主義を定式化するときに永続革命論を無視したので、ソビエトでは継承発展されず、トロツキーの思想の系譜につながる人々やアントニオ・グラムシなど西欧のマルクス主義者が継承し、形を変えながらも発展させた。
- 帝国主義戦争の内乱への転化(革命的祖国敗北主義)
- 自国が帝国主義戦争を起こすに至ったら、労働者は自国の戦争での勝利のために闘うのではなく、戦争に乗じて階級闘争を激化させ現体制を打倒するために闘うべきだとした。レーニンはこのようにして第一次世界大戦時に革命を成功させ、ロシアを戦争から離脱させた。
[編集] 前衛党論
レーニンは自らの党組織論をおおむね『何をなすべきか』(1902年)において記している。これは労働組合主義を「経済主義」と呼んで批判する論争的な著作である。
レーニンは革命の可能性について自然発生性のみならず目的意識性を重視した。そのうえで革命への目的意識は外部からプロレタリアートに注入できるとも考え、革命理論はプロレタリアートの外側から知識人から持ち込むものと考えた(この点まではカール・カウツキーと一致している)。加えて、それゆえに実際の党組織と労働者組織は峻別されるべきだと考えた。これらの運動論・党組織論は次のように実践された。
- 職業革命家の党
- ドイツ社会民主党を範とするメンシェヴィキは、大衆に開かれた党を主張した。メンシェビキを率いるマルトフは、党の指導のもと、個人的に党活動に参加すべきであると考えていた。
- しかし、「党員は党組織の一部を担う」べきだと主張しつづけていたレーニンは、大衆に開かれた党を官憲に開かれた党であるとした。そのうえで言論の自由のないロシアでは、革命党は職業革命家の党にならざるを得ないとした。のちに、これらの党専従活動家・党官僚がノーメンクラトゥーラと呼ばれる特権階級と化してしまうという皮肉が現出した。
- 民主集中制
- もともとは「分派結成の自由」も含めた異論の表明は保障するが、少数は多数の「決定」に従わなければならない、とする組織原則。ボルシェビキは、17年革命以前は分派結成の自由を保障していた。革命後の内戦・帝国列強のロシア侵入に対する戦争の中で「指導部の指導力」を強める必要から、ロシア共産党は一時的な措置として「分派の結成」を禁止した。スターリンは、レーニンの死後、「党は討論クラブではない」として、「分派の禁止」を「民主集中制の原則」にまで高めた。以後、第二次大戦後も各国共産党は、「分派を禁止する一枚岩の組織原則としての民主集中制」を保持し続けた。それは党内討論よりも指導部による方針の上意下達を優先する、各国の共産党を例外なく蝕んだ「組織内官僚主義」の組織論的根拠となったと言えよう。
- 一国一前衛党論
- レーニンは第三インターナショナル(コミンテルン)結成に際して、「支部承認」を求める組織に「社会民主主義からの訣別の証」として「(国名)共産党」と名乗ることを義務付けた。また、一国で複数の共産主義組織の加入申請があった場合はどれか一つ、もしくは組織の統一をさせたうえで支部承認した。しかし、初期のコミンテルンは「一国一支部」を原則としながらも、「コミンテルン支部以外の共産主義組織」を「イコール敵対者」と定義していたわけではない。このコミンテルンの原則を「統一した党は革命の司令部であり、司令部がいくつもあったら命令指揮系統が混乱する」とする「一国一前衛党論」として「原則」にまで高めたのはスターリンである。その結果、スターリン指導下のコミンテルンによる「一国一前衛党論」は、各国支部以外の共産主義組織に対して「反革命トロツキスト」(それは必ずしもトロツキー派の組織ではなくてもレッテルを貼って攻撃した)などと激しく攻撃する「セクト主義」の論理として機能していくことになる。コミンテルンに対抗して1938年に結成されたレフ・トロツキーの第四インターナショナルも「一国一支部の承認」を原則としているが、自派以外の共産主義組織の存在を認める「複数主義」の立場をとっている。
[編集] 現実
- 党官僚の特権化
- 遅れたロシアでは執権すべきプロレタリアートは存在せず、プロレタリアートが発生するまでは党が民衆を指導しなければならないとした。が、レーニンが想定した「プロレタリアート」は発生せず、党官僚がそのまま社会のエリート、特権階級として定着してしまった。民衆が貧しい生活を強いられる一方で、党官僚は資本主義の富裕層のような生活を送ったので共産貴族などと呼ばれる。
- 管理社会
- 反革命の摘発自体は、マルクス・レーニン主義に始まるものではない。フランス革命も、絶対王政諸国から反革命戦争を挑まれ、国内において反革命と思われる民衆を大量に処刑した。実際、レーニンはフランス革命を参考にして内戦の期間中革命法廷を設立している。
- 秘密警察(チェーカー)は、帝政ロシアのオフラーナを基にしているが、強制収容所はレーニン自身が提唱したものである。国民の生殺与奪を握ったチェーカーと強制収容所も、最初は資本主義国家群や反対者による反革命に対抗する目的で創設されたが、先進国・その他の資本主義国家群において社会主義革命が起こらないまま守勢に回るに及んで、管理社会と呼ばれる状況が出現し、ほどなくして史上最大の管理社会が誕生した。社会主義国では秘密警察による監視や密告が奨励され、全体主義の独裁と変わらない状況になってしまった。
- 思想への思い入れ、階級憎悪
- マルクス主義者は、学説の一つに過ぎないマルクス主義を真理だと確信する傾向がある。しかも、プロレタリアートとブルジョアジーは和解できないとの立場から、ブルジョアジーや革命を阻害する勢力・人物に対して激しい憎悪を持つことになる。これが、国民の自由の弾圧へとつながった。
- マルクス・レーニン主義者は現実を無視して理論を選ぶ、あるいは思想に対する激しい思い入れをもつ、との考えから、マルクス・レーニン主義を擬似宗教と呼ぶ者もいる。小田実は、マルクス・レーニン主義の体質は、カトリックに似ていると主張する。その中で「プロレタリアート=信徒、党=教会、書記長=ローマ教皇とそのまま置き換えられる」としている(ロシアはカトリックではなく東方正教圏なので、ロシア正教会に準えられる場合もある)。