財賀寺
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財賀寺 | |
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![]() 本堂 |
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所在地 | 愛知県豊川市財賀町観音山3 |
位置 | 北緯34度52分28.98秒 東経137度21分24.62秒 |
山号 | 陀羅尼山(だらにざん) |
宗派 | 高野山真言宗 |
本尊 | 千手観音(秘仏) |
創建年 | 伝・724年(神亀元年) |
開基 | 伝・行基、聖武天皇(勅願) |
正式名 | 陀羅尼山 蘇悉地院 財賀寺 |
別称 | |
札所等 | 三河白寿十八観音15番 |
文化財 | 仁王門、本堂内厨子、木造金剛力士立像(重要文化財) |
財賀寺(ざいがじ)は、愛知県豊川市にある、真言宗の寺院。本尊は千手観音。
目次 |
[編集] 沿革
創建の時期や事情は定かでないが、寺伝によれば、聖武天皇の勅願により、724年(神亀元年)に行基が開いたとされ、813年(弘仁4年)、空海が中興したという。現存する金剛力士(仁王)像は平安時代後期、11世紀にさかのぼる作で、この頃にはかなりの寺観が整っていたものと思われる。平安時代末期には、没落した源氏の再興を期する源頼朝が、当寺の本尊に厄除けの祈願をし、宿願が叶って征夷大将軍となった頼朝は、建久3年に本堂を再建し、1300石余りの寺領を寄進してこれに報いたと伝える。
三重塔や七堂伽藍を備え、多くの参詣者を呼んで隆盛を極めていたが、応仁の乱の際に、100余りあった院坊の大半が焼失。山外に擁していた数百の末寺も離散した。1472年(文明4年)、三河国宝飯郡周辺を治めていた牧野古白が現在地に再建。1495年には、奥院が建立された。以後、牧野氏をはじめ、今川氏や徳川氏の庇護を受けた。徳川家康は朱印160石余り、山林36町余りを寄進、これにより寺は10万石の格式に列した。
明治時代に入ると廃仏毀釈に遭ったが、寺そのものの廃絶は辛くも免れた。
創立当初は観音山の頂上にあったが、頼朝が再建した際に今の地に移された。1811年(文化8年)から1823年(文政6年)まで12年かけて、現在の場所に建てられた。
[編集] 文化財
- 木造金剛力士立像(仁王像)(重要文化財)
- 作風、技法等から平安時代後期、11世紀頃の作と推定される。檜材の寄木造で、前後左右の4つの材を接ぎ合わせ、これに両腕などに別材を接いでいる。
- 右の阿形は高さ381cm、左の吽形は高さ375cmで、東大寺南大門金剛力士像に次ぐ大きさを誇る。1980年(昭和55年)6月6日、国の重要文化財に指定された。阿形像は1982年から、吽形像は1983年から、それぞれ修理が行われた。
- 仁王門(重要文化財)
- 木造金剛力士像を安置するため建立された。室町時代の建立と推定されている。軒の形式から見て、当初楼門(2階建て門)として計画されたものの2階部分が造られなかったものと思われる。1990年(平成2年)3月19日、国の重要文化財に指定。老朽化が激しくなったため、1996年(平成8年)10月1日から丸2年かけて解体修理が行われた。修理は1998年(平成10年)9月30日に終了し、同年10月10日、修復完了を記念して横綱貴乃花の土俵入りが奉納された。
- 本堂
- 本堂内厨子(重要文化財)
- 本尊を安置する禅宗様厨子で、本堂より古い室町時代の作。墨書から1483年(文明15年)の造営であることがわかる。1990年に国の重要文化財に指定された。
[編集] 年表
- 724年 寺伝による創立年
- 813年 空海が「陀羅尼山蘇悉地院財賀寺」として中興したという
- 1615年 火災発生
- 1472年 再建
- 1789年 文殊堂再建
- 1800年 本堂三十三観音堂建立
- 1811年 本堂再建( - 1823年)
- 1841年 庫裏台所から火災発生。書院、護摩堂、土蔵など消失
- 1859年 護摩堂再建
- 1980年 金剛力士立像を重要文化財に指定
- 1985年 金剛力士立像修復完了
- 1986年 仁王門を豊川市文化財に指定
- 1987年 仁王門を愛知県文化財に指定
- 1990年 仁王門、本堂内厨子を国の重要文化財に指定
- 1991年 木造観音二十八部衆を豊川市文化財に指定
- 1996年 仁王門修復( - 1998年)。木造宝冠阿弥陀如来坐像を愛知県文化財に指定