源義広
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源義広(みなもと・の・よしひろ)は、
1.志田 義広(しだ よしひろ、生年未詳 - 元暦元年5月4日(1184年6月13日))は平安時代末期の武将。河内源氏第五代源為義の三男。志田(志太、信太)三郎先生(しだ・さぶろう・せんじょう)。またの名を義憲とも。
2.紺戸義広(こんど よしひろ、生年不詳-治承4年(1180年)?)源義時の四男。平安時代末期の武将。
3.毛利義広(もうり よしひろ、生没年不詳)は源義隆の長男。平安末期、鎌倉時代初期の武将。
[編集] 志田義広(源義広)
源為義の三男。母は六条大夫重俊の女。名は義憲とも。
若年時に都において帯刀先生の職にあり、後年関東に下向し常陸国信太荘(茨城県稲敷郡)を開墾し本拠地としたため、通称を志田(志太、信太)三郎先生と呼ばれる。父・為義は子福者で、50人を超える子がいたとされ、源氏の棟梁となる長兄の源義朝以下、帯刀先生義賢、左衛門尉頼賢、鎮西八郎為朝、新宮十郎行家(義盛)らは、みなこの義広の兄弟であった。
義広は初め次兄(かつ同母兄)の義賢と親しく、義賢とほぼ同時期に関東に下向し、協同して長兄・義朝の勢力圏を脅かした。しかしこれが元で義賢が久寿2年(1155年)悪源太義平(義朝の長男)に討たれた後は、専ら信太荘にあってその開墾に専念するようになり、目立った軍事活動は封印してしまう。そうした事情もあってか、保元の乱(1156年)に際しても、はじめ上洛して父為義の指揮下に入りながらも、実際の戦闘には参加していない。また続く平治の乱においても一時上京していたという説もあるが、具体的にどのような行動を取ったのかは不明である。以後、平清盛の平氏政権が栄華を極めるのを横目にしながらも、特にこれに反抗する様子もなく、二十余年の間信太荘を動くことはなかった。
治承四年(1180年)の甥の頼朝の挙兵に際しては、甥の頼朝を格下と見て、その配下に入るのを潔しとせず、むしろ反対に翌治承五年(1181年)、下野国の足利忠綱と連合して頼朝討滅の兵を挙げる。機先を制さんと、頼朝配下の小山朝政を下野国野木宮(栃木県下都賀郡)に攻撃するが、却って源範頼・結城朝光・長沼宗政らの援軍を得た朝政に敗れ、本拠地を失った。これが野木宮合戦である。
その後、同じく甥であり、兄であった義賢の子である木曽義仲軍に参加する。このことが義仲と頼朝との対立の一因となるが、義仲は義広を叔父として相応に遇し、終生これを裏切ることはなかった。義広は義仲上洛の際にも一方の将として従い、信濃守に任官されている。
しかし、元暦元年(1184年)に義仲が頼朝に滅ぼされると、義広もまた逆賊として追討を受ける身となる。最後は伊勢国羽取山(三重県上野市)に拠って抵抗を試みるが、土地の豪族の服部時定によって攻められ、一子・義延とともに討ち取られた。
後年、梅田氏、志駄氏、楢崎氏などがこの義広の後裔を称している。
[編集] 紺戸義広
源義家(八幡太郎義家)の六男の源義時の四男。石川源氏一族の紺戸氏の祖。
治承四年(1180年)に源頼朝が挙兵すると、それに呼応し、先祖の河内源氏の本拠地の河内国石川郡で挙兵したが、平清盛が派遣した源季貞、平盛澄の軍に宇治で戦い大敗。捕らわれたとも、討ち死にしたともいうが、詳細は不明。
[編集] 毛利義広
源義家(八幡太郎義家)の七男の源義隆の長男。官途は治部丞。
父以来の武蔵国愛甲郡毛利庄を相伝し、鎌倉幕府御家人となる。(源姓毛利氏の祖)弟には久下直光、若槻頼隆、高松定隆らがいる。子孫は美濃国に至り、摂津源氏系の美濃源氏の土岐氏をはじめ、斎藤氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏と主家を転じ、尾張藩の藩士となる。子孫には毛利広盛、毛利広義などがいる。