足立遠元
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足立遠元(あだちとおもと、生没年不詳)は、鎌倉時代の御家人。足立氏の祖。通称は右馬允。
考証によると、遠元は1130年代前半の誕生であるとされる。出自についても不明が多い。父は藤原遠兼。母は豊島康家の娘。
足立氏は藤原氏の流れを汲み、遠元の父、藤原遠兼のときに武蔵国足立郡に移り、遠元から足立姓を名乗ったとされる。また一方で、武蔵国造の流れで、平将門〔?~940年〕の承平の乱の時代の足立郡司武蔵武芝の子孫である在地豪族とする説もある。館跡は、桶川市やさいたま市など数箇所にある。
平治の乱に参陣し源義朝に仕え、治承寿永の乱においては、 源頼朝が下総国から武蔵国に入ったときに駆けつけた。公文所寄人として、幕政に携わり、建久元年(1190年)に頼朝が上洛した際、布衣侍十二人の内に選ばれて参院の供奉をし,頼朝の推挙で左衛門尉に任ぜられる。後には十三人の合議制の一人に加わる。「吾妻鏡」承元元年(1207年)3月3日の記述を最後に史料から姿を消している。
参考文献:金澤正大「鎌倉幕府成立期に於ける武蔵国々衙支配をめぐる公文所寄人足立右馬允遠元の史的意義」『政治経済史学』第156、157号1979年5月、6月