出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
遠藤保仁 |
名前 |
愛称 |
ヤット |
カタカナ |
エンドウ ヤスヒト |
ラテン文字表記 |
ENDO Yasuhito |
基本情報 |
国籍 |
日本 |
誕生日 |
1980年1月28日 |
出身地 |
鹿児島県鹿児島市 |
身長 |
178cm |
体重 |
75kg |
血液型 |
AB型 |
選手情報 |
在籍チーム |
ガンバ大阪 |
ポジション |
MF |
背番号 |
7 |
利き足 |
右足 |
代表歴 |
キャップ |
45 |
得点/失点 |
3 |
|
■Template(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
遠藤保仁(えんどう やすひと、1980年1月28日 - )はガンバ大阪所属のプロサッカー選手。ポジションは守備的ミッドフィールダー (ボランチ)。鹿児島県鹿児島郡桜島町(現在の鹿児島市)出身。各世代でコンスタントに日本代表に選ばれ、黄金世代の1人と評されている。
[編集] 経歴
桜洲小学校、桜島中学校を経て鹿児島県の名門・鹿児島実業高校に入学する。卒業後、1998年に横浜フリューゲルスに入団するが、同年限りでクラブが消滅。1999年、京都パープルサンガに移籍する。2001年、京都がJ2に降格したため、ガンバ大阪へ移籍。以降、チームの中心選手として活躍している。ガンバ移籍時(当時20歳)の移籍金は1億5000万円(1億2000万円、1億8000万円説あり)と言われ、日本人のJクラブ間移籍で歴代2位(当時/1位は前園真聖)の記録であった。名古屋、柏、セ大阪、FC東京、札幌など10チーム以上が獲得に動いたと言われている。
2006年10月11日インド・バンガロールで行われたアジアカップ予選のインド戦のため現地入りした後、発熱して試合を欠場。帰国後も微熱や肝機能低下などの症状が続き、後の検査の結果ウイルス性肝炎と診断された。10月20日、兵庫県西宮市内の病院へ緊急入院するも、11月6日には無事に退院した。この入院の期間中、チームのリズムが乱れ、なかなか勝てなかった。12月2日に行われた、浦和レッドダイヤモンズとのリーグ最終戦では後半9分から出場したが、試合勘が戻っておらずチームも敗れ、優勝を逃すこととなった。
[編集] プレイスタイル
- 中盤の底から長短自在に左右に散らす正確なパス、際立つ視野の広さ、要所要所での守備。ガンバの攻撃サッカーにおいて遠藤が果たす役割は大きい。
- 右足のキックは強くてパンチ力があり、ミドルレンジからのシュートは大きな武器でもある。
- PKやFK、CKの名手である。PK職人というニックネームも一部でつけられている。PKの特徴としてはゆっくりとした助走から入り相手GKの動きを見ながら相手の逆方向へ蹴る。しかし2005年のナビスコカップ決勝戦、ジェフ千葉とPK戦までもつれ、1人目のキッカーに指名されたが立石智紀にセーブされ、チームも優勝を逃すという悔しい経験もしている。試合後には「初めてPKを失敗した」と話した。その後のリーグ戦でもPKを任されるとほとんど決めているが、ジェフ千葉と対戦したときは立石智紀に再びセーブされる試合もあった。
[編集] 所属チーム
[編集] 個人成績
年度 |
チーム |
リーグ |
背番号 |
リーグ戦 |
カップ戦 |
天皇杯 |
J・J1 |
J2 |
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
1998年 |
横浜F |
J |
27 |
16 |
1 |
- |
4 |
0 |
0 |
0 |
1999年 |
京都 |
J1 |
14 |
24 |
4 |
- |
2 |
0 |
2 |
0 |
2000年 |
京都 |
J1 |
14 |
29 |
5 |
- |
6 |
1 |
1 |
0 |
2001年 |
G大阪 |
J1 |
19 |
29 |
4 |
- |
4 |
0 |
3 |
1 |
2002年 |
G大阪 |
J1 |
30 |
30 |
5 |
- |
8 |
1 |
1 |
0 |
2003年 |
G大阪 |
J1 |
7 |
30 |
4 |
- |
6 |
0 |
2 |
0 |
2004年 |
G大阪 |
J1 |
7 |
29 |
9 |
- |
0 |
0 |
3 |
0 |
2005年 |
G大阪 |
J1 |
7 |
33 |
10 |
- |
4 |
0 |
2 |
0 |
2006年 |
G大阪 |
J1 |
7 |
25 |
9 |
- |
0 |
0 |
4 |
1 |
2007年 |
G大阪 |
J1 |
7 |
|
|
- |
|
|
|
|
通算 |
245 |
51 |
- |
34 |
2 |
18 |
2 |
- Jリーグ初出場 - 1998年3月21日 Jリーグ1st-1 vs横浜マリノス
- Jリーグ初得点 - 1998年8月 1日 Jリーグ1st-15 vs鹿島アントラーズ
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会など
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 44試合 3得点(2002-2006)
年度 |
試合 |
国際Aマッチ |
出場 |
得点 |
2002年 |
(13) |
1 |
0 |
2003年 |
(16) |
11 |
1 |
2004年 |
(22) |
16 |
2 |
2005年 |
(20) |
8 |
0 |
2006年 |
(19) |
8 |
0 |
通算 |
44 |
3 |
[編集] 個人タイトル
- 2003年 - ベストイレブン
- 2004年 - ベストイレブン
- 2005年 - ベストイレブン
- 2006年 - ベストイレブン
[編集] エピソード
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク