酒井忠寄
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酒井 忠寄(さかい ただより、宝永元年8月11日(1704年9月9日) - 明和3年5月8日(1766年6月14日))は、江戸時代中期の出羽国庄内藩5代藩主。左衛門尉系酒井家6代。老中。官位は従四位下、摂津守、左衛門尉、侍従。
庄内藩支藩・出羽松山藩主酒井忠予の次男。本家に嗣子がなかったため養子入りし、4代藩主・酒井忠真の養嗣子となる。庄内藩は蝦夷警備と東北の外様大藩警守が任務で、通常幕府の役職に就かない例だが、忠寄は寛延2年(1749年)46歳のとき老中に抜擢された。老中在任中、宝暦騒動(郡上一揆)始末の担当となり裁判を担当している。
正室は前田綱紀の養女(浅野吉長の娘)。子に酒井忠温(長男)、植村寿朝(四男)、本多康伴(五男)、本多忠久(六男)、本庄資尹(七男)、娘(奥平松平忠刻正室)らがいる。
明和3年(1766年)死去。藩主の座は長男・忠温が継ぐ。
[編集] 経歴
- 1704年(宝永元年) 生まれ
- 1720年(享保5年) 摂津守
- 1731年(享保16年) 父が死去し庄内藩を襲封。左衛門尉。
- 1749年(寛延2年) 9月28日 老中
- 1764年(明和元年) 5月16日 老中辞任
- 1766年(明和3年) 卒(63歳)
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