浅野吉長
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浅野 吉長(あさの よしなが、天和元年7月1日(1681年8月14日) - 宝暦2年1月13日(1752年2月27日))は、安芸広島藩第5代藩主。江戸時代の大名である。第4代藩主浅野綱長の長男、母は徳川光友の娘(徳川綱誠の養女)。室は前田綱紀の女節姫。子に第6代藩主浅野宗恒、蝶姫(酒井忠寄室)、娘(前田正甫室→相馬徳胤室)、娘(松平定輝室→阿部正直室)。官位は従四位下、官職は安芸守・左少将。
江戸に生まれる。元禄8年(1695年)、元服に際して将軍徳川綱吉より名をもらい、吉長と改名。宝永5年(1708年)に襲封し、広島城主となる。
享保10年(1725年)、広島藩の藩校として、白島稽古屋敷の一部を割いて「講学所」(現在の修道中学校・修道高等学校)を創始した。享保15年(1730年)、弟の浅野長賢に対して広島新田藩3万石を分知。元文4年(1739年)、宮島の大鳥居を再建している。また、湯治場「湯の山温泉」は吉長公ゆかりの温泉として知られ、寛延3年(1750年)に神殿・拝殿・旧湯治場を再建・竣工した。宝暦2年(1752年)広島で死去。享年72。墓所は広島市西区山手町の新庄山墓地。
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