重野安繹
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重野 安繹(しげの やすつぐ、文政10年10月6日(1827年11月24日) - 明治43年(1910年)12月6日)は江戸末期から明治初期に活躍した漢学者、歴史家。日本で最初に実証主義を提唱した日本歴史学研究の泰斗。字は子徳、号は成斎、曙戒軒鞭。
薩摩国鹿児島郡坂元村生まれ。1864年に藩校・造士館の講師となり、薩摩藩国父・島津久光の命により『皇朝世鑑』を著す。また、昌平黌の生徒にもなり、塩谷宕陰、安井息軒などの教えを受ける。この頃、同僚の金の使い込みにより、遠島処分にされ、その先で西郷隆盛と出会った。
1871年に上京し、1875年以降太政官正院修史局・修史館にて修史事業に関わった。1881年、『大日本編年史』編纂に参加した。清代考証学派に範をとる歴史学方法論を主張、これに基づき児島高徳の実在や楠木正成の逸話を否定し「抹殺博士」の異名をとった。しかしこのような主張は川田剛ら国学系・水戸学系歴史学者との対立を激化させ、のちの久米邦武筆禍事件の原因の一つとなった。1888年、帝国大学文科大学(のちの東京帝国大学文学部)教授に就任、その翌年には「史学会」初代会長に就任。
この間、1979年の東京学士会院創設とともに会員となり、漢文訓読を廃し音読による中国語教育の水準向上を主張した。また同年来日した清国の洋務派知識人の王韜との交遊を契機に、翌年結成された日本最初の本格的アジア主義団体・興亜会に参加した。
1889年近代実証史学の立場から『赤穂義士実話』を著す。それまであった赤穂浪士寺坂信行逃亡説の証拠を論破し、逆に彼が討入に参加した証となる史料を提示した。それ以来、寺坂逃亡説は口にする者が減ったとされる。
1890年、星野恒・久米邦武と共に『国史眼』を執筆。同年には貴族院勅撰議員となった。しかし1892年の「神道ハ祭天ノ古俗」事件の影響で重野は翌年に帝大教授を辞職、修史事業も中止された。
[編集] 関連文献
- 関幸彦 『ミカドの国の歴史学』 新人物往来社、1994年 ISBN 4404021011