高力忠房
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高力 忠房(こうりき ただふさ、1584年(天正12年) - 1656年1月7日(明暦元年12月11日))は、江戸時代前期の大名。高力清長の孫で、高力正長の長男。官位は従五位下、左近大夫。正室は真田信之の娘。高力隆長、高力政房等の父。
[編集] 生涯
遠江国浜松出身。父が早世したため、祖父に育てられた。慶長4年(1599年)、武蔵国岩槻藩2万石を領する大名となる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に従軍した。関ヶ原の戦後、西軍に属した増田長盛の身柄を預かっている。慶長14年(1609年)、居城の岩槻城が全焼したが、復興に尽力して主君・徳川家康の鷹狩用の宿として提供した功績を家康から褒め称えられた。慶長19年(1614年)、大久保忠隣が改易されたとき、安藤重信らと共に小田原城の受け取りを担当した。
同年冬からの大坂冬の陣では秀忠軍の一員として参戦し、翌年からの大坂夏の陣では土井利勝に従って奈良で豊臣軍と戦い、戦後は残党狩りを担当した。その功績により、元和5年(1619年)に浜松藩3万石へ加増移封された。寛永2年(1625年)、寛永11年(1634年)には計1万石を加増され、合計4万石を領する大名となった。
寛永16年(1639年)4月、3代将軍・徳川家光から島原の乱後の肥前国島原藩4万石へ移封された。このとき、家光は忠房を厚く信任していたため、あえて乱後で荒廃している島原へ移封させて復興に努めさせ、さらに長崎の警備や九州における外様大名の監視も任せたと言われている。忠房は家光の期待に応え、乱後で混乱していた島原の農民に対して1年間の年貢免除、浪人らの移民奨励などの政策を採用して島原を見事に復興させた。
明暦元年(1655年)12月11日死去。享年72。法名は「隣岑道英禅林院」。墓地は西岡の永正寺。
忠房の移民政策により、島原には様々な地方の人々が集まったため、新たな方言が生まれたといわれている。
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