岩槻城
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岩槻城(いわつきじょう)は、武蔵国埼玉郡岩槻(現在の埼玉県さいたま市岩槻区)政令指定都市編入以前は岩槻市にあった城。江戸時代以前には岩付城とも書かれた。県指定史跡。
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[編集] 構造
荒川(現在の元荒川)の台地を利用した平城。また珍しい総曲輪型城郭の縄張りが施されていた。
中世には奥大道(鎌倉街道中道、奥州道)沿いに、近世には日光御成街道沿いにあった。
[編集] 歴史
[編集] 室町時代
従来は1457年、扇谷上杉持朝が当時対立していた古河公方・足利成氏を牽制するために、扇谷の家臣の太田道真・太田道灌父子によって江戸城河越城とともに取り立てられたとされていた。しかし、近年、1478年に古河公方方の忍城主成田顕泰の父成田自耕斎正等が築城したと記述された史料が発見され、最近の研究では後者の説のほうが有力である。
[編集] 戦国時代
扇谷上杉氏と山内上杉氏の対立から関東も戦乱期に突入する。1522年、太田資頼が岩槻城を奪取する。以後、岩槻太田氏の居城となる。ところで、伊豆、相模を手中に収め、関東平定に野心を持っていた北条氏が、この頃から岩槻城攻略に乗り出す。1546年の河越夜戦で北条氏の武蔵支配が決定的になる中、岩槻城のみは孤立しながらも奮闘する太田資正(三楽斎)の居城として機能する。1564年、資正の留守中に嫡子・太田氏資が北条氏康に内応し、資正の追放を断行。岩槻城は北条側に落ちる。1567年、氏資が上総国で戦死した。氏資には男子がいなかったため、北条氏はこれを契機に岩槻城を直轄にする。1580年には北条氏直の弟の源五郎が、その早世後の1585年にはその弟氏房が城主になる(※形の上では太田氏の名跡を継いでいる)。
豊臣秀吉による小田原征伐の際には、二千の兵が岩槻城に篭城するが、浅野長吉等に率る約二万の兵に攻められ、1590年落城。
[編集] 江戸時代
北条氏滅亡後、徳川家康が関東に入ると、徳川家の譜代家臣の高力清長が二万石で岩槻城に入る。以後、青山氏・阿部氏・板倉氏・戸田氏・藤井松平氏・小笠原氏・永井氏ら譜代大名の居城となる。江戸中期に徳川家重の側用人大岡忠光(大岡忠相の遠縁)が入り、藩主が固定。廃藩置県まで大岡氏の居城となる。
[編集] 遺構
城址公園に黒門と裏門が移築され残っている。他に門2棟が移築され残っている。
[編集] 関連項目
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