高富藩
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高富藩(たかとみはん)は、美濃国(現在の岐阜県山県市高富)に存在した藩。
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[編集] 藩史
第5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院の異母兄・本庄道芳の孫・本庄道章が宝永2年(1705年)3月に1万石の大名として高富に入ったことから(正式に高富に陣屋が移ったのは宝永6年(1709年))、高富藩が立藩した。これは勿論、綱吉と桂昌院の縁故のためである。
藩政では第8代藩主・本庄道昌の時代から小藩の悲しさからの財政窮乏が始まる。第9代藩主・本庄道貫は厳しい倹約令を出し、百姓に対しては植林を薦める一方で莫大な献納金徴収を図ったが、この藩政改革は失敗した。そのため、今度は年貢増徴政策、藩札の発行から京都の豪商を財政顧問として招いての藩政改革を図ったが、これも年貢増徴に反対する百姓の反対で頓挫する。道貫はその後の安政5年(1858年)にも藩政改革を図ったが、同年8月26日に道貫が死去したため、またも頓挫した。その後を継いだ第10代藩主・本庄道美の時代になると藩財政は完全に破綻し、慶応4年(1868年)には藩内で打ちこわし、百姓一揆が起こった。この頃、高富藩は20万7400両もの借財を抱えていたのである。わずか1万石の藩にとっては、凄まじすぎる借財と言えよう。
明治2年(1869年)の版籍奉還で道美は藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で高富藩は廃藩・高富県となった。明治5年(1872年)、高富県は岐阜県に編入された。
歴代藩主10人のうち、6人が幼少、もしくは病弱で嗣子が無く、たびたび養子を迎えていた。
[編集] 歴代藩主
[編集] 本庄(ほんじょう)家
1万石。譜代。
- 道章(みちあきら)<従五位下。宮内少輔>
- 道矩(みちのり)<従五位下。大和守>
- 道倫(みちとも)<従五位下。和泉守>
- 道堅(みちかた)<従五位下。大和守>
- 道信(みちのぶ)<従五位下。大和守>
- 道揚(みちあき)<従五位下。山城守>
- 道利(みちとし)<従五位下。甲斐守>
- 道昌(みちまさ)<従五位下。式部少輔>
- 道貫(みちつら)<従五位下。伊勢守>
- 道美(みちよし)<従五位下。宮内少輔>