ABCヤングリクエスト
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ABCヤングリクエストは朝日放送ラジオで1966年(昭和41年)4月から、1986年(昭和61年)10月まで放送された、リスナー参加のリクエスト音楽番組である。通称"ヤンリク"。
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[編集] 概要
現在の「ABCミュージックパラダイス」をはじめとする、朝日放送ラジオにおける深夜放送の基礎を築いた番組であった。放送時間は月曜から日曜まで毎晩、午後11時10分から、午前2時まで。のちに午前3時までに延長。終夜放送開始以降は土曜日と日曜日の放送が終了。平日が午後10時放送開始になる。後に毎日放送ラジオで始まった深夜放送、「MBSヤングタウン」(開始当時は「歌え!MBSヤングタウン」)、近畿放送ラジオの「日本列島ズバリリクエスト」などと並んで、関西の名物深夜放送として君臨した。
[編集] 番組コンセプト
[編集] 男性アナと女性タレント
番組は朝日放送の若手アナウンサーと女性タレント2人1組で担当し、毎晩(土・日曜含む)23時台-翌朝午前3時にかけて放送された。選曲のジャンルは多岐に亘り、受験生が主要なターゲットであったが、深夜に働く大人も意識し、歌謡曲なども多く放送された。
初代の男性パーソナリティーは、道上洋三、辻豊人、因田宏紀の3名が日替わりで担当した。以来1960年代後半から1980年代前半にかけて入社した同局の男性アナウンサーのほとんどがヤンリクを経験し、ここにフリーの女性アナウンサー・タレントが加わり、男女2名で進行した。1年半後に放送を裏番組の「MBSヤングタウン」をはじめとする、在阪他局の深夜番組が、お笑いタレントやミュージシャンなどで出演者を構成していたが、このスタイルは番組終了まで続けられた。
なお、朝日放送がテレビ・ラジオで実況生中継を行う、夏の全国高等学校野球選手権大会の開催期間中、朝日放送では全試合の中継をテレビ・ラジオ各々で終日行う。加えて、プロ野球中継もある。そのため、男性アナウンサーが払底することがあり、このときに限っては女性アナウンサー2人、または女性アナウンサーと女性タレント各1名という暫定的な放送が行われることがあった。
[編集] プレゼント
また「はがきで当てよう!!車と1万円」というキャッチコピーが付いており、リスナーから寄せられたはがきを1ヶ月間保存し、月末に抽選。日産自動車、(後にいすゞ自動車)提供の自動車と賞金1万円が各1名ずつプレゼントされた。なお現金1万円のプレゼント人数は徐々に増え「車と1万円×3」を謳った時期を経て、番組末期は「車と6万円」と、1万円の賞金が6人に増えた。
この他、番組の主なグッズとして、シャープペンシルやノート、カセットテープ、オルゴール(電話機の保留用。流れる曲はヤンリクのテーマソング)、また「ホロホロコーナー」では星座別スプーンがプレゼントされていた。なお一部の商品は朝日放送敷地内の電波塔「大阪タワー」の売店で販売されていた。
[編集] コーナー
リスナーからのリクエストはがきの合計でヒットチャートを毎晩決定する「ヤンリク・ベスト20」の他、パーソナリティーの個性を生かしたコーナー「ヤンリク・おもちゃ箱」(後に「らくがき帳」「トライアルスポット」)、PRコーナー「命を賭けてる60秒」などがあった。
この他、タレントが出演するコーナーとしては以下のものがあった。
- ABCミッドナイト寄席
- 落語、漫才などの演芸コーナー
- 仁鶴・頭のマッサージ
- 笑福亭仁鶴がさまざまな聴取者からの投稿を紹介。猛スピードで紹介し、リアクションする語り口が話題を呼んだ。なお、コーナー開始当初は生放送だったが、仁鶴の人気が上がり、録音コーナーとなった。
- ミキサー完備 スタジオ貸します
- 番組のテーマ曲を作曲したキダ・タローが出演する、アマチュアミュージシャンの演奏コーナー。キダの辛辣な審査コメントが人気となる。なお、このコーナーには河島英五、庄野真代らがデビュー前に出演した。
- 心の旅 遠くへ行きたい
- 青春の悩みや夢など、真摯な投稿と詩の朗読をするコーナー。メインの出演者は「謎のおじさん」は、高尾元通アナウンサー(当時。後にアナウンス部長を経て同局解説委員)。アシスタントは川田恵子、後に小菅文代が担当。なお「謎のおじさん」の正体は、番組の最終回で披露された。
- ホロホロコーナー
- 占星術師・香月星苑監修による占いコーナー。番組終了後も後継番組「乾龍介のホットポイント」の中で「ホロスコープ・ホットポイント」として継続した。
- ヤンリク・ラジオキッチュ
[編集] テーマソング
「星があなたにささやく夜も 小窓に雨が降る夜も…」のフレーズで知られるテーマソング(キダ作曲)は、奥村チヨ、岡本リサ、ふたつのさくらンぼ、松原みき、岩崎良美、桑田靖子、ラブポーション(現在も中村貴子がタレント、音楽ライターとして活動)ら当時の人気歌手が歌っていた。
当初、テーマ曲の歌詞は東京在住の高名な作詞家に依頼した。しかし、番組開始の昭和40年代は、東京と大阪の色の違いが激しく、発注した番組プロデューサー・今田昭にはしっくりこなかった。しかし、何度か修正を依頼しているうちに、放送開始日が迫ってきてしまい、今田自身が自ら作詞をした。
[編集] ヤンリク担当のアナウンサーによる生での放送終了アナウンス
1983年10月2日まで、ABCラジオでは、この番組がその日の最終番組となっていた。(当時、土曜深夜も午前3時半で放送終了。10月になると「もうすぐ夜明けABC」がスタートし、日曜深夜を除いて終日24時間放送に移行する)
その為、番組終了の午前3時を過ぎると放送終了アナウンス「今夜も朝日放送ラジオを最後までお聴きくださいましてありがとうございます。この後、朝日放送ラジオは暫く放送をお休みいたしまして…」のコメントをヤンリク担当の男性アナウンサーが生放送でコメントし、最後にコールサインの「JONR」を2度コール。その後オルゴール(別名・チンコロカン キダ・タローが作詞・作曲したABCのステーションソング「きこうABC」をアレンジしたもの)の音色で放送を締めくくった。なお、オルゴールは、2007年現在も月曜日未明=日曜深夜の2時45分の終了アナウンスの後に流れている。
なお、1983年9月まで午前3時終了とはなっているものの、その後の番組がなかったこと、また、プロ野球シーズンのナイター中継の試合時間による延長によっての後続番組の放送時間開始の遅延があった事、放送終了アナウンスが生放送であったことから、融通を利かせた放送編成であった。
また、午前3時前から流していたレコード音楽は時報を過ぎても最後まで流すなど、予定されたレコードの数が多すぎて午前3時までに終わらないときや、プロ野球シーズンのナイター中継の試合時間による後続番組の放送時間開始の遅延があった場合は、10分・20分と更に終夜放送までと放送終了時間を現場裁量で伸ばしていた。
[編集] 番組の終焉とその後
しかし、1983年頃から番組に陰りが見え始める。1984年には裏番組の放送開始時間と同じ10時スタートとし、5時間の超ワイド編成となった。
コーナーのテコ入れ、プレゼントもリニューアルを図ったが、マンネリ化していた事と番組も20年間を全うした事、そして「番組の活力がまだ十分ある内にこそ、ゆとりを持った新しい番組を開発しなければならない」といった理由もあり、昭和61(1986)年10月3日の放送をもって終了。最終回には歴代のパーソナリティー・レギュラー出演者らを迎え、朝日放送ラジオ第1スタジオに、50人の聴取者を招いて、午前5時まで放送された。
その後1990年代後半、この番組を過去に担当した中原秀一郎アナウンサーが「青春プレイバック・秀さんのヤンリク時代」(平日11:00~11:45、1996年4月1日~1997年12月31日放送)と題した番組を担当した。ヤンリクが放送された1960~80年代の楽曲のリクエストが中心だった。
また、1990年3月の朝日放送創立40周年記念日、2000年11月の開局50周年記念日にそれぞれ放送された特別番組の中でも、ヤンリクの復活スペシャルが放送された。1990年は道上洋三アナウンサー、2000年はアナウンス部を離れ、役員室に勤務していた金木賢一・元アナウンサーがメインパーソナリティーを務めた。