お蔭参り
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お蔭参り(おかげまいり)とは、江戸時代に起こった伊勢神宮への集団参詣運動。数百万人規模のものが、60年周期に3回起こった。伊勢参りとも。
お蔭参りの最大の特徴として、奉公人などが主人に無断で、または子供が親に無断で参詣したことにある。これがお蔭参りが抜け参りとも呼ばれるゆえんである。幕藩は規制を敷いたが、効果は無かった。
流行時にはおおむね本州、四国、九州の全域に広がったが、真宗地域には広まりにくかった傾向がある。
死人が生き返ったなど、他の巡礼にも付き物の説話は数多くあるが、巡礼を拒んだ真宗教徒が神罰を受ける話がまま見られる。一番多いのは、おふだふりである。村の家々に神宮大麻(お札)が天から降ってきたと言う。これは伊勢信仰を民衆に布教した御師がばら撒いたものだともいわれる。
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[編集] 背景
中世には、現世に失望し来世の幸福を願い沢山の人々が寺院へ巡礼した。やがて、神社にも巡礼がさかんになった。 街道の関所が天下統一により撤廃され、参詣への障害が取り除かれた。
江戸時代以降は五街道を初めとする交通網が発達し、参詣が以前より容易となった。世の中が落ち着いたため、巡礼の目的は来世の救済から現世利益が中心となり、観光の目的も含むようになった。商品経済の発達により現代の旅行ガイドブックや旅行記に相当する本も発売された。
当時、庶民の移動、特に農民の移動には厳しい制限があったが、伊勢神宮参詣に関してはほとんどが許される風潮であった。無許可の旅行であっても伊勢神宮参拝が目的であることがはっきりすれば「叱責」程度の罰で済まされた。
一生に一度の伊勢神宮参詣は庶民の夢でもあった。
[編集] お伊勢講
当時の庶民にとって伊勢までの旅費は、相当な負担であった。日常生活ではそれだけの大金を用意するのは困難である。そこで生み出されたのが「お伊勢講」と言う仕組みである。「講」の所属者はそれぞれお金を出し合い、それを合わせて旅行費に充当する。積立金から「講」に所属する農地や財産を置く場合があった。誰が行くかは「くじ引き」で決められる仕組みだが、「講」の全員がいつかは当たるよう配慮されていた様である。くじ引きの結果、選ばれた者は、「講」の代表として伊勢へ旅立つ、旅の期間は農閑期が利用される。
出発にあたっては盛大な見送りの儀式が行われる。また地元においても道中の安全が祈願される。参拝者は道中観光しつつ、伊勢では代参者として皆の事を祈り、土産として御祓いを購入する。無事帰ると、帰還の祝いが行われる。江戸の人々が貧しくとも一生に一度は旅行できたのは、この「講」の仕組みによるところが大きいだろう。
またこの「お伊勢講」は平時においては神社の氏子の協同体としても作用していた。「お伊勢講」は畿内では室町中期から見られた現象だが、全国的になったのは江戸以降である。江戸時代が過ぎてもこの仕組みは残った、なお戦後はGHQにより解散させられた。
[編集] 変遷
(年号のみ記載のあるものは、厳密にはお蔭参りではないが、群参の顕著な年である。)
[編集] 中世
お蔭参りの前段階として、集団参詣が数回見られる。
[編集] 前期
- 1650年(慶安3年)
- 慶安のお蔭参りは、記録が少なく、詳しいことはわかっていない。「寛明日記」によると、江戸の商人が流行らせたと言う。箱根の関での調べによると、正月下旬から3月上旬までで一日平均500-600人が参詣し、3月中旬から5月までで平均2100人が参詣したという。参詣するものは皆「白衣」を着ていた。
- 参詣者:
- 当時の日本総人口:1781万人(1650年)
- 発生地域:江戸
- 期間:1月~5月
- 1723年(享保8年)
- 1730年(享保15年)
[編集] 中期
- 1771年(明和8年)
- 4月11日、宇治から女・子供ばかりの集団が仕事場の茶山から無断ではなれて、着の身着のままやってきたのが明和のお蔭参りの始まりと伝える。
- ピーク時には地元松坂では、自分の家から道路を横切って向かいの家に行くことすら困難なほど大量の参詣者が町の中を通っていった、と当時の日記にかかれている。参詣者らは「おかげでさ、ぬけたとさ」と囃しながら歩いてきた。集団ごとに幟を立てていたが、初めは幟に出身地や参加者を書いていたが、段々と滑稽なものや卑猥なものを描いたものが増えてきたという。お囃子も、老若男女がそろって卑猥な事々を並べ立てるようなものになった。
- 参詣者:200万人
- 当時の日本総人口:3110万人(1750年)
- 発生地域:山城の宇治
- 期間:4月~7月(5ヶ月間)
- 経済効果:
- 街道沿いの物価が高騰した。白米1升が50文が相場のときに、4/18には58文に上がり、5/19には66文、6/19には70文まではね上がった。わらじは5/3で8文だったものが、5/7には13-15文になり、5/9には18-24文に急上昇した。
- 街道沿いの富豪による「施行」もさかんに行なわれた。無一文で出かけた子供が、銀を持って帰ってきたといった事もあったという。初めは与える方も宗教的な思いもあって寄付をしていたが、徐々にもらう方ももらって当然と考えるようになり感謝もしなくなって、中にはただ金をもらう目的で参詣に加わる者も出てきた。
[編集] 後期
- 1830年(文政13年 / 天保元年)
- 文政のお蔭参りでは、60年周期の「おかげ年」が意識されていた。伝播地域は、明和よりも狭かったが、参加人数は大幅に増えている。
- 何故か参詣するときに、ひしゃくをもっていって伊勢神宮の外宮の北門で置いていくということが流行った。阿波の巡礼の風習が広まったとも言う。
- 参詣者:427万6500人
- 当時の日本総人口:3228万人(1850年)
- 発生地域:阿波
- 期間:閏3月初~8月末
- 経済効果:86万両以上
- 物価上昇が起こり、大坂で13文のわらじが200文に、京都で16文のひしゃくが300文に値上がりしたと記録されている。
[編集] 末期
[編集] お蔭参り(抜け参り)に参加した著名人
[編集] 参考文献
- 旅の文化研究所 編『絵図に見る伊勢参り』(河出書房新社、2002年) ISBN 4309242707
- 金森敦子『伊勢詣と江戸の旅 道中日記に見る旅の值段』(文春新書、2004年) ISBN 4166603752
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