ノート:さよなら絶望先生
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[編集] 推測で書かれている記述について
改訂を加えましたので説明します。基本方針として、Wikipediaでは事実以外は書くべきはありません。Wikipedia:ウィキペディアは何でないか、Wikipedia:言葉を濁さない、Wikipedia:検証可能性をご覧ください。
- その他 - 万世橋わたる
- 万世橋の進路については漫画本編に出てきておらず、重要な情報でなく言い換えでも書きようがないため削除しました。
- 2のへ組 - 愛ちゃん
- 名前については「愛ちゃん」以外漫画本編に出てきていません。
また、以下の記述についても同様の指摘が成り立ちます。ご一考ください。(手をつけていませんが。)
- 2のへ組 - 小森霧
- > (魔法先生ネギま!に登場する某キャラのパロディだと思われる)
- 個人的な推測でしかありません。また、「某キャラ」では検証のしようがありませんし言い換えもできません。
- 2のへ組 - 関内・マリア・太郎
- > (キャラクターとしてはラブひなに登場する某キャラのパロディだと思われる)
- 個人的な推測でしかありません。また、「某キャラ」では検証のしようがありませんし言い換えもできません。
以上です。--Kogawa 2006年6月30日 (金) 23:46 (UTC)
- 問題ないと思います。愛ちゃんについてはあまりにもだったので本編(の背景などに)それらしき記述があるのかな、と思ったのですが。--Kkkdc (Disp / Conl) 2006年7月1日 (土) 02:24 (UTC)
[編集] 「サブタイトル」削除について
記事を冗長にする原因、外部リンクに元ネタ解析サイトがリンクされているので不要ですので削除させていただきました。Meteo Light 2006年7月29日 (土) 08:02 (UTC)
[編集] 話数の表示について
「二十話」となっていた物を「20話」としたところ、「漢数字が正しい」との理由で元に戻されましたが、正しいと言うのであれば単行本の記述通り「第二十話 あんまり不安定だからわたし空を探しに行ってきましたのよ」が正しいでしょう。これを「二十話」と約している時点で「20話」より「二十話」が正しいという指摘は的を射ていない様に感じます。そもそも私としましては20番目の話を指し示す代名詞の様な物と認識しておりますので正しい正しくないという問題ではないのではないかと思いますがいかかでしょうか?--マクガイア 2006年8月1日 (火) 13:09 (UTC)
- ・・・ではなく、表記方法を作品にあわせるべきだ、ということではないでしょうか。例えば、~時間目とか、KURASHI ~とか。そのような方針が正しいかは別の話ですが、「二十話」を「第二十話 あんまり不安定だからわたし空を探しに行ってきましたのよ」の約した形だ、という解釈には疑問を感じます。--Kkkdc (Disp / Conl) 2006年8月1日 (火) 14:23 (UTC)
- 直下に「五十話」という表記があり、表記をどちらかに揃えるとなると作品内での表記の方が問題を起こしにくかろう、というのが理由です。…今見たら「三珠まよ」の項目が残ってましたが。言いだしっぺなんで全部直します。West@East 2006年8月1日 (火) 16:20 (UTC)
- 私の書き方が悪かったようですね。私の言いたい事は文章の後半部分、「正しい正しくないという問題ではない」という事であって、「作品にあわせるべきかどうか」にたいする疑問提起だったのですが、補強のつもりで書いた部分が目がつく文章になっていました。申し訳ございません。なお、前半部分についても「正しい」「正しくない」であれば私の主張は間違っているとは思いません。「より好ましい」という事であればKkkdcさんのおっしゃる事ももっともでございますし、どちらが「好ましい」かについて議論したい訳ですが、「正しい」と「好ましい」では話が違います。
- West@Eastさんのおっしゃる揃えるという事にもちろん同意いたします。五十話につきましては私の見落としであり、結果として表記不統一になってしまった事につきまして、まずお詫び申し上げます。ただ、どうせ揃えるのであれば百科事典として全体で揃えた方がいいのではないかと言うのが私の意見です。多くの作品において、話数の呼び方に独特の物を用いている事は知っておりますが、Wikipedia内においては殆どの記事においてアラビア数字で表されており、原作に基づいた表記にはなっていません。(放映リストなんかが代表例かと)このような状態で一部の作品に限り原作表記にあわせる事は、全体としての統一感を乱す事となるのではないでしょうか?--マクガイア 2006年8月2日 (水) 06:37 (UTC)
- 逆になぜアラビア数字で統一しなければならないのかを考えてください。統一するだけなら漢数字でもいいはずです。「他の大多数の記事がやっているから」というのは理由になりません。
- 私には新世紀エヴァンゲリオンの放送話をアラビア数字に直す理由はありませんし、うしおととらの章をアラビア数字に直す理由もまたありません。個々の作品事情に合わせてアラビア数字に揃える揃えないを決定するぐらいなら、最初から「一次資料重視」という方針で編集したほうがよっぽど統一感が出ます。
- いずれにせよ、Wikipedia全体の方針を議論するにはこのノートでは不適切なので、別のところでやるべきでは。West@East 2006年8月2日 (水) 21:07 (UTC)
- 「なぜ?」と言われれば、見やすくて分かりやすいからにつきます。年月が二〇〇六年八月二日ではない事や、計算をする際にアラビア数字を使うのはやはり利便性が高いからではないでしょうか。現状の日本では、漢数字を使う必要がある時以外は原則アラビア数字じゃありませんか? 例示して頂いた物については内容を理解しておりませんので編集に関わるつもりはありませんが、「#」を使ったリストにすべきでしょうね。特にエヴァンゲリオンの方はあまり推奨されていないテーブルを使ってますし。ただ、リストであれば「正しい」「正しくない」という事も関わってきますので、「正しく原文通り」というのは意味がある様には感じます。前回例示として放映リストを挙げたのは「リストであっても」アラビア数字で表されている例が多いというのが理由ですので。しかし今回につきましてはまずリストではなく本文中である事から、「20番目の話を示している事」が分かりやすい方がいいでしょう。最初に指摘した通り代名詞に近いものであり、「第二十話」とかけば今作の20話について限定して指し示す固有名詞である訳でもなく、原文通りである必然性が感じられないのですよ。--マクガイア 2006年8月3日 (木) 15:20 (UTC)
- 日付に関してはWikipediaで標準化されたフォーマットです。スタイルマニュアルの該当項目を参照してください。マクガイアさんが本気で話数についてのWikipedia全体での標準化を目指すのであれば、井戸端などで提案するのがふさわしいでしょう。
- 私が「漢数字が正しい」と判断した根拠としては、記事内での話数の漢数字・アラビア数字混在があったこと。記事内での表記をどちらかに統一する時の基準として「一次資料の表記」を選択したこと。要するに「あれ、不可よ。原作があるじゃないかね」ということです。記事内で一貫した記述であれば、アラビア数字であっても問題ないでしょう。ただし本記事の場合、漢数字で「第**話」とついたサブタイトルリストが削除されている経緯があり、このリストが復活した場合にはまた混在問題が発生します。
- それから、Wikipedia全体での表記統一は、前述の例であげたような個々の作品事情(エヴァの場合)やアラビア数字でのフォーマット化不可能な記述(うしとらの場合)があり、表記統一は作品の意図を無視した機械的な置換を招きかねないことを理由として私は反対します。West@East 2006年8月4日 (金) 21:39 (UTC)
- 「なぜ?」と言われれば、見やすくて分かりやすいからにつきます。年月が二〇〇六年八月二日ではない事や、計算をする際にアラビア数字を使うのはやはり利便性が高いからではないでしょうか。現状の日本では、漢数字を使う必要がある時以外は原則アラビア数字じゃありませんか? 例示して頂いた物については内容を理解しておりませんので編集に関わるつもりはありませんが、「#」を使ったリストにすべきでしょうね。特にエヴァンゲリオンの方はあまり推奨されていないテーブルを使ってますし。ただ、リストであれば「正しい」「正しくない」という事も関わってきますので、「正しく原文通り」というのは意味がある様には感じます。前回例示として放映リストを挙げたのは「リストであっても」アラビア数字で表されている例が多いというのが理由ですので。しかし今回につきましてはまずリストではなく本文中である事から、「20番目の話を示している事」が分かりやすい方がいいでしょう。最初に指摘した通り代名詞に近いものであり、「第二十話」とかけば今作の20話について限定して指し示す固有名詞である訳でもなく、原文通りである必然性が感じられないのですよ。--マクガイア 2006年8月3日 (木) 15:20 (UTC)
- 直下に「五十話」という表記があり、表記をどちらかに揃えるとなると作品内での表記の方が問題を起こしにくかろう、というのが理由です。…今見たら「三珠まよ」の項目が残ってましたが。言いだしっぺなんで全部直します。West@East 2006年8月1日 (火) 16:20 (UTC)
[編集] 外部リンク
「絶望のほとりに一輪の華」というページにリンクされていましたがマガジン掲載の紙面をスキャンした画像が無断で 使用されるという著作権侵害が行われていましたので削除しました。ガイドライン違反です。--222.148.89.165 2006年11月26日 (日) 13:21 (UTC)
[編集] 121.2.94.178 さんの編集に関して
- >これは、『改蔵』の出版権が小学館にあり、著者のキャラクターであっても講談社の出版物内で使用する事は不可能なためである。←不可能ではない。実際に他の会社にもでている。ただし地丹の特異なキャラや小学館の社員がモデルのキャラを永遠と出し続けるのが危険が高まると言う事。別に出しても構わないが訴えられたときに責任問題(担当の)になるから積極的に出せていないだけでしょ。
- >しかし、このような条件下でも『改蔵』のキャラクターを登場させている(『育ってダーリン!!(新装版)』にも登場している←これは連載中に出したもの。さらに臼井はポコポコの方に出ている方がまだ近く、まだ地丹ほどの強烈さがない。
- とりあえず過去の作品までカバーできていない人が書き込むとWikipedia:独自の調査の疑いが強くなると思います。編集合戦になって連載中の内容が書き込めなくなるのは嫌ですから、他の人に任せます。下記は私が書いたもの。
- 作中では、登場回数こそ少ないものの、『かってに改蔵』の坪内地丹などのキャラクターが登場している箇所があるが、大抵は明確な容姿ではない。これは、『改蔵』の出版権が小学館にあり、著者のキャラクターであっても講談社の出版物内で使用する事は不要な争いの種になるた可能性があるため。このような条件下でも地丹を登場させている事、『育ってダーリン!!(新装版)』にも何度も登場し、さらに専用の多数のページを設けている事などから、著者は地丹に対して強い愛着があるといえる。 そのせいか、作品内で名取羽美に変わるキャラクターが存在するにも関わらず地丹に変わるキャラクターは存在していない。(過去の著者の作品の登場人物を元にした人物が作品に登場しており地丹の変わりと誤解されている。)--Aikidou 2006年12月16日 (土) 13:48 (UTC)
独自の調査以前に全般的に編集者の陳腐な批評ですね。Wikipedia:ウィキペディアは何でないか、Wikipedia:検証可能性、Wikipedia:独自の調査と何れの基本方針にも触れているため削除対象となります。--Wrath 2006年12月20日 (水) 01:22 (UTC)
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- Wrath氏が除去した事に関しては正しいと思います。連載初期の『改蔵』ファンによる願望と、その後の臼井のキャラが混合されていて陳腐なものになっていると思いますし、(前作の改造などの以前の作品にも以前の他の作品の登場人物が出てくる事がありましたし。)さらに完結していない内容の作品について、これから情報が出てくるため、核となる部分以外のの評論などに関してはすぐに腐敗してしまいますしね。
- ただ、Wrath氏が全て除去した点からあまりこの作品などについて興味がないと思いますのでこちらで問題のないように書き直しておきます。--Aikidou 2006年12月21日 (木) 23:11 (UTC)
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- そもそも編集者の評価の類は一切禁止されているので除去されて当然。--Wrath 2006年12月22日 (金) 23:40 (UTC)
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問題の部分が消されて振り出しに戻りましたが、争いの円滑な回避法としては最もなものだと思いますので良しとしましょう。Wrath氏に感謝。--121.2.94.178 2006年12月22日 (金) 04:56 (UTC)
[編集] パロディの件
- パロディについて。あまり分かっていない人により書き換えられた上にコメントアウトされたようです。私が以前書いたパロディの部分ですが、これは久米田氏の赤松氏に対するパロディは前作から小ばかにするものにほぼ一貫してます。ですのでこの事に関しては主観ではなく客観的なものであり、書き換えられる必要もないし、除去される理由はないです。--Aikidou 2006年12月21日 (木) 23:11 (UTC)
- 明確な証拠が存在しない以上、それらは推測であるため主観や客観は関係なく書き入れるべきではないと思います。作者自身の発言等を確認してから書き入れるべきです。--163.51.20.522006年12月22日(金)11:37 (UTC)
- 明確な証拠?久米田作品と赤松作品を読めば分かる事です。163.51.20.52さんの理論だと誰でもわかる事、子供でも当たり前だと判断できる事であっても作者が断定しなければ、載せてはいけないという事になります。あと、ちょっと難しい話になりますが、評論する場合作者の本当の意思なんて言う物は関係ないのです。作者の表現物をもって判断するものです。作者が述べたい事≠読者が受け取った事、と言う事が発生した場合尊重されるのは後者であり、文章下手な作者であったいう話です。作者が公に発表した時点でその表現物は公の物になると言う事です。(別に著作権が公のものになるという話でないし、作者の意思を尊重しないという類の話でもありません。)その上で一定のルール(久米田氏の赤松氏へのパロディ)に基づいて該当するもの(今回は登場人物)を拾い上げたまでです。もし意味のある反論と言うものがあるのであれば、ルールか該当するものに関しての矛盾点(例えば久米田氏のキャラの方が先に登場したなど)をあげる内容になると思います。ご理解いただけたでしょうか?--Aikidou 2006年12月23日 (土) 00:02 (UTC)
- 明確な証拠が存在しない以上、それらは推測であるため主観や客観は関係なく書き入れるべきではないと思います。作者自身の発言等を確認してから書き入れるべきです。--163.51.20.522006年12月22日(金)11:37 (UTC)
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- Wikipedia:検証可能性に「ある事柄が単に「検証可能」だからと言って、それをウィキペディアに書いてよいとは限りません。 Wikipedia:ウィキペディアは何でないかをご覧ください。また、情報が「真実」であるということだけでは、その情報がウィキペディアの「検証可能性」の要求、つまりウィキペディアに掲載されるためには情報源が付けられていなければならないという要求を満たしているということを意味しません。」とあるが読んでいないのでしょうか。Aikidou氏が両方を読み比べ調査を行った、しかしそれを記事にして良いとは限らない。付け加えるなら概要に項を作ってまで載せる必要が感じられない。--Wrath 2006年12月23日 (土) 00:25 (UTC)
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- 読んでますよ。今回の件はその件とは異なり問題ないです。読めば分かる事ですから。あと、Wikipedia:独自の調査の『In some cases, where an article (1) makes descriptive claims the accuracy of which is easily verifiable by any reasonable adult without specialist knowledge, and (2) makes no analytic, synthetic, interpretive, or evaluative claims, a Wikipedia article may be based entirely on primary sources (examples would include apple pie or current events), but these are exceptions.』(まだ草案なので英語の方を示しました。)にあたる内容です。項目を作ったのは久米田氏が前作から赤松氏のパロディを良くやっている事(赤松氏側の方で問題になった事がある)、この作品事態が風刺やパロディを扱っているためです。両作者の作品を読めば理解できる内容です。一般書籍より簡単な漫画ですので変な主観や私情が入らなければ納得する事は難しくないです。--Aikidou 2006年12月23日 (土) 01:10 (UTC)
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- ノート読みました。Aikidouさんは赤松作品のパロディになんとしても言及すべきと考えているみたいですね。結構だと思いますが。言及するのであればやはり客観性に注意すべきです。
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- ①「小馬鹿にしてからかう」について。Aikidouさんは小馬鹿にしてからかっていると捉えたようですし、『改蔵』時代に久米田に激怒した一部の赤松ファンも小馬鹿にされてからかわれたと思ったからこそ激怒したのでしょう。しかし世には久米田のパロディを赤松氏への友好的なオマージュとして捉える向きもあります(むしろその方が主流では?)。したがって「小馬鹿にしてからかう」という表現は主観的だと言えます。除くべきです。「小馬鹿にしてからかう」という表現を挿入しなくとも「パロディ」という言葉だけで十分意味は伝わりましょう。
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- ②「作者いじり禁止」の貼り紙が本作品中のコマの背景に出ました。これが連載初期であったことや『改蔵』時代からの一連の流れを勘案すると、赤松作品ネタの大っぴらな使用を控える旨の編集からの要請を暗示したものであると読むのはきわめて妥当でしょう(まさにAikidouさんが言うところの「明確な証拠?久米田作品と赤松作品を読めば分かる事」です)。実際に赤松作品ネタは『改蔵』時代ほど頻繁かつ目立つ(みんなすぐにそれと分かるような)使われ方はしていないと思います(女の子たくさん+出席簿の初期設定を除いては)。本項目で赤松作品のパロディに触れるのであれば、この貼り紙についても触れるべきです。なぜなら、本作品での赤松作品ネタそのものに対する久米田の態度が唯一表明されているという点で重要であり、これに触れない場合内容が必然的に偏るからです。
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- 最低でも以上の①②は考慮し、改良すべきです。少なくとも今のままでは客観性に問題ありです。
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- どうでもいいかもしれないがAikidouさんのノートでの発言に二三補足。「ちょっと難しい話になりますが、評論する場合作者の本当の意思なんて言う物は関係ないのです。作者の表現物をもって判断するものです。」そうは言い切れません。文学研究の世界では著作物と作者の意思が関係ある派と関係ない派のどちらの立場をとる人もいます。Aikidouさんは完全に後者とお見受けします。古典的な研究では前者の立場が圧倒的に普通でしたが、一昔前にはその反動として後者の立場をとる人も多かったようです。しかし今現在は前者の立場が盛り返しています。もひとつ。「一般書籍より簡単な漫画ですので変な主観や私情が入らなければ納得する事は難しくないです。」漫画が一般書より簡単だという前提は変な主観で私情だと思いますが。納得しかねます。--うーみん 2006年12月28日 (木)
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- ①オマージュとして捉えるというのはどこで行われているのですか?それはいつの話なのでしょうか?あと、普通に漫画を読めばセリフなどからして小ばかにしてからかうというのは客観的に捉えた正しい考えです。オマージュとして考える方が主観でしょう。さらに『小ばかにしてからかったもの』を本作品から該当するものを主観なく機械的に吊り上げた結果が登場人物のパロディになってます。そしてあの文章は主観のない文章になってます。
- ②についてなら『貼り紙』について述べていなく、独自の解釈の疑いがあったので取り除きました。申し訳ない。ただ、もし書かれるのでしたら、本項では前作に比べてパロディが目立たない事、それに並行して『貼り紙』の存在をのべる方法が良いと思います。ただし、絶対にそうでない内容ですのでその間に(文字による)結び付けはいけないと思います。ただし読んだ人間がそれとなく分かるようにするのがベストだと思いますよ。
- 派のほうですが、それが執筆者の日記や発言集などが十分ある場合ですよね。さらにそれをもって解釈するのはほとんど、独自の調査に違反しますから、悲しい事ですが後者の方しか現状のウィキペディアではできないと思います。
- 漫画が一般書より簡単だという前提 これは、専門知識とはそれなりの学術機関でそれなりの年月を得て得る物であり、漫画の知識をそれに該当させるのはおかしいと述べたかったわけです。納得いただけましたか?--Aikidou 2006年12月28日 (木) 03:05 (UTC)
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赤松作品のパロディであることは誰が見てもわかるからまだいいが「パロディの大半は小馬鹿にしてからかうものに一貫しているため、赤松氏は氏のHPで彼のファンを治める事が何度かあった。」は完全に独自の調査。そもそも久米田作品は赤松氏だけでなくあらゆる作品のパロディをネタにしているため赤松作品だけを取り上げて書く必要性はないと思われる。--218.110.176.18 2006年12月28日 (木) 09:37 (UTC)
- 赤松氏HP上にコメントがあり、それが前作に対して起こった事。ファンを治さめる必要があるのは盗作か悪い評価があった場合くらいしかない事。それだけの事。あと、パロディの件ですが、パロディの中で何度も赤松作品がよく使われるのは明らかですので赤松氏に関する記事が発生するのは自然、私はそれをまとめただけ。必要あるかないと思うのは個人の価値観であり、人それぞれ。こういう場合は残しておくしか一貫性が保てません。あとリンクされているHPで補完できないものなら残しておく必要がある。--Aikidou 2006年12月29日 (金) 13:06 (UTC)
そもそもパロディという行為自体が作品を小ばかにすることを前提にしているため(してなかったらただのパクリだろう)「小馬鹿にしてからかうものに一貫しているため」云々は明らかに不要である。いずれにせよこの記述に対し掲載を賛成しているのは本人だけなので、削除対象になると思われる。--Wrath 2007年1月2日 (火) 04:49 (UTC)
パロディには色々種類がある。小ばかにしてからかうだけがパロディではない。もしパロディの定義が一つしかなければなぜファンが喜ぶパロディと嫌うものがあるのか、そこのところよく考えてもらいたい。>本人だけ←ここは民主主義ではないし、日本人の集団の意思より、ウィキペディアの理念を尊重してもらいたいね。--Aikidou 2007年1月2日 (火) 11:30 (UTC)
- 久米田氏は人物をパロディで扱う時は名前を一字かえたり、髪型をまったく同じにしたり、その人物の代名詞と呼べる言動をそのキャラにさせたりしている(一旧など)。これらは久米田氏がその人物がなにかのパロディだと表現する場合に絶対していること。だがことのんや音無ではしていない。そもそも赤松氏が最初に考え出したキャラの特徴ではなく、恥ずかしがりやは現実にいる性格であり、前髪が長い美人は昔の作品に登場したりしている。キャラがネギまキャラのパロディだと考えるのは間違い。現実にいる人間の性格をおおげさにしたようなキャラがほとんどなので、パロディと考えるのではなく名前が示している意味しかないと考えるのが自然。「ネギまが他作品のキャラを元にして考え出したキャラが多い」からといって「茶々丸の初期設定にTo Heartのセリオを含む」と書き込むのと同じで一部分が同じだからといって、あたかもそれが真実のように書き込むべきではない。
- かってに改蔵の11巻P68と14巻P139でネットアイドルのことをネタにしている。ことのんは久米田氏が以前から持っているネットアイドルへの偏見を集めて、ネットアイドルという存在自体をネタにしているだけなのは明らか、ことのんと長谷川千雨は関係ない。--218.251.52.156 2007年1月9日 (火) 09:55 (UTC)
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- 話のすべてが時事ネタのパロディですからね、ネギまだけを小ばかにしているだの編集者の主観を入り交えて書く必要はないですね。--220.211.87.92 2007年1月11日 (木) 17:22 (UTC)