アレッサンドロ・ファルネーゼ
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アレッサンドロ・ファルネーゼ (Alessandro Farnese, 1545年8月27日 - 1592年12月3日)は、第3代パルマ公およびピアチェンツァ公。第2代パルマ公オッターヴィオと公妃マルゲリータの子。名は、曾祖父であるローマ教皇パウルス3世の本名に由来する。
母がスペイン・ハプスブルク家の出身であることから、スペイン勢力に就いて軍事的才能を発揮した。また、妻がポルトガルのマヌエル1世の孫娘マリアであったため、マドリードの宮廷でも重きをなした。1571年のレパントの海戦に参加した。1578年からスペイン王フェリペ2世よりネーデルラント総督を命じられ、南部10州をスペインに帰順させる功をたてた。
1589年にフランスでヴァロワ朝断絶後、カトリック同盟の貴族たちがブルボン家のアンリ4世の王位継承を認めず内乱になると、アレッサンドロはスペイン軍を率いてカトリック同盟の救援に向かった。1592年、ルーアンにおいてアンリ4世の軍勢と交戦中に重傷を負い、アラスで死去した。
彼はパルマ公であったが、公爵としての統治は息子ラヌッチョが摂政としておこなっていた。
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