パルマ公国
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パルマ公国(Ducato di Parma)は、イタリア北部にあった国で、1545年に創られ1860年のイタリア統一まで存続した。パルマ・ピアチェンツァ公国、パルマ・エ・ピアチェンツァ公国とも。
ファルネーゼ家出身の教皇パウルス3世が息子のピエール・ルイージに教皇領の一部であったパルマとピアチェンツァを分けて創建したのが最初である。
1731年にアントーニオが跡継ぎもなく死ぬと、スペイン・ブルボン家のカルロス王子(後のカルロス3世)が短期間公位に就いた後、ポーランド継承戦争の結果オーストリア・ハプスブルク家が獲得し、さらにオーストリア継承戦争を経て、1748年のアーヘンの和約によってカルロス3世の弟フィリッポに渡った。
ナポレオン・ボナパルトのフランスに侵略された後、1814年には妻のマリーア・ルイーザに公位が渡され、彼女の死んだ1847年に再び公位がブルボン家に戻された。
1860年、住民投票によりサルデーニャ王国への併合が決定され、そのままイタリア王国に統一された。
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