アレン・コージ
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アレン・コージ | |
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プロフィール | |
リングネーム | “バッファロー”アレン・コージ
バッドニュース・ブラウン バッドニュース・アレン |
本名 | アレン・ジェームス・ブラウン |
身長 | 185cm |
体重 | 118kg |
誕生日 | 1943年10月22日 |
死亡日 | 2007年3月6日 |
出身地 | アメリカ ニューヨーク州ニューヨークシティ |
トレーナー | アントニオ猪木 |
デビュー | 1977年10月23日 |
引退 | 1998年 |
柔道 | ||
銅 | 1976 | 男子重量級 |
アレン・ジェームス・コージ(Allen James Coage, 1943年10月22日 - 2007年3月6日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。また、モントリオール五輪の柔道重量級の銅メダリストでもある。
プロレスファンには、バッドニュース・ブラウン、あるいは、バッドニュース・アレンのリングネームで知られている。
[編集] 経歴
コージは、レスラーとして訓練されることに先駆け、モントリオール五輪の米国代表チームに入り、20年間、トレーニングに柔道を用いた。日本で柔道家と一緒にトレーニングしたが、その生活は貧乏に近いものだった。しかし、スポーツに対しての愛情があったために、貧乏な生活も乗り越えられたという。
モントリオール五輪で銅メダルを獲得した後、柔道の道場を開設することを決めた。その後、1977年の坂口征二との柔道ジャケットマッチを機に、コージはプロレスに生涯を捧げることを決め、1978年頃からアントニオ猪木と一緒にトレーニングをし始めた。新日本プロレスでは、全日本から転出したアブドーラ・ザ・ブッチャーのタッグパートナーなどで活躍した。
新日本と当時のWWWF(現在のWWE)で短期間の活動をした後、カルガリーにあるスチュ・ハートのスタンピード・レスリングに入った。将来、ダイナマイト・キッドやオーエン・ハートと試合を持つであろうと言われていた。
1988年、バッドニュース・ブラウンとしてWWF(現在のWWE)に戻る。WWF所属中の印象的な瞬間に、1988年のレッスルマニアIVでの20人バトルロイヤル戦で卑怯的な攻撃をしてブレット・ハートを敗退させたことや、1989年に当時王者だったランディ・サベージとの短期抗争があげられる。この先、数年は独立的なプロモーション活動を行い、日本のUWFインターナショナルでも働いた。
1998年、ヒザのケガのため、現役を引退。カルガリーで妻と暮らす間、自身でプロモーション活動を行うことを考慮したが、友人のために時として独立的なショーを運営した。さらに、レスリングを教えながら、ショッピングモールの警備員としても働いた。
2007年3月6日早朝、胸の痛みを訴え、病院に緊急搬送されたが亡くなった。63歳だった。同日、かつて所属していたWWEの公式サイトでもコージの訃報が伝えられた。
[編集] 入場テーマ
- 「スナイパー・フロム・ザ・ダークネス」(大野雄二)