ブレット・ハート
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ブレット・ハート(Bret "Sergeant" Hart、1957年7月2日 - )はカナダのプロレスラー。アルバータ州カルガリー出身。WWE、WCWで活躍した。オーエン・ハートは実の弟である。通称ヒットマン(Bret "Hitman" Hart)、「処刑の達人(Excellence of Execution)」。
1990年代のWWEを代表するスーパースター。先代のWWEの主人公であるハルク・ホーガンとは対照的な技巧派レスラーであり、パフォーマンスより試合内容でその地位を築いた。テーマカラーはピンクと黒で、ピンクはカナダ国旗が赤と白であることに由来する。入場時にはサングラスを着用し、観客席の子供にプレゼントしていた。このサングラスも元はインタビューの際のテレ隠しであったなど、あまりマイクアピールなどは得意としなかったが、座右の銘でもある有名な決め台詞として「現在、過去、未来においても俺が最高だ(The Best there is,The Best there Was,and The Best there ever will be)」がある。
[編集] 経歴
プロレスの名門スチュ・ハート家の六男として生まれる。高校時代はアマチュアレスリングで活躍し、卒業後はハート家の地下に設置されているハート・ダンジョンでケンドー・ナガサキ、ミスター・ヒトのコーチを受け1976年プロレスデビュー。
地元カルガリーのスタンピード・レスリングでダイナマイト・キッド、デイビーボーイ・スミス、ヒロ斎藤、ジョージ高野等と共に活躍。この間新日本プロレスにも参戦し、木村健悟、初代タイガーマスクとも戦っている。
1984年WWFが父スチュ・ハートの会社を買収し、スタンピード・レスリング買収の条件としてWWFはブレット、ダイナマイト・キッド、デイビーボーイ・スミスと契約。WWFでは義兄のジム・ナイドハートと共に毎回アメリカをコケにするヒールのタッグチーム、ハート・ファウンデーションを結成し、1987年にはデイビーボーイ・スミス、ダイナマイト・キッドのタッグブリティッシュ・ブルドッグスに勝利しWWF世界タッグ王座を獲得した。当初はヒールであったが、徐々にベビーフェイス寄りとなり、王座流出後はベビーフェイスのチームとして活躍した。2度目のタッグ王座戴冠後、レッスルマニア7での王座流出を機にチームは解散し、ブレットはシングルプレーヤーとして活動を開始した。
1990年4月13日、東京ドームにて日米レスリング・サミット開催。当時2代目タイガーマスクに変身していた三沢光晴とシングルで戦い、20分時間切れで引き分けている。
シングルプレーヤー転向後の1991年にはカート・ヘニングを破りIC王座を獲得。一度陥落するも1992年レッスルマニア8でロディ・パイパーを相手に奪回し、同年にイギリス・ウェンブリーで行われたサマースラムで義弟デイビーボーイに敗れIC王座を落とした。この三試合は、名勝負の多いブレットのキャリアの中でも特に評価が高い。同年10月リック・フレアーを破りWWF世界ヘビー級王座を初戴冠。翌年のレッスルマニア9ではヨコヅナによって王座を奪われるも、一年後のレッスルマニア10でそのヨコヅナから王座を奪回した。90年代前半から中盤は弟オーエン、ショーン・マイケルズ、ディーゼル等、自身と共に「ニュー・ジェネレーション」と呼ばれた選手たちとWWF世界ヘビー級王座を争い、特に1996年に開催されたWrestleMania XIIのマイケルズとのWWF世界ヘビー級王座を賭けたアイアンマン・マッチは敗れはしたものの、歴史に残る名勝負として語り継がれている。
しかしバックステージでのブレットとマイケルズの仲は険悪で、ブレットが一時映画界進出のためにプロレスから離れていた頃にマイケルズはD-Generation Xのリーダーとしてトップに君臨し、厳格なプロレスラー一家に育ったブレットはD-Xの下品なパフォーマンスでトップにのし上がったマイケルズを批判。マイケルズもブレットとWWFとの大型契約を話題にし、WWFに尽くしてきた自分よりもブレットが高いギャラをもらう事は有り得ないと批判。その後も泥酔していたマイケルズが番組放送中にブレットのプライベートを暴露し、それに激怒したブレットと殴り合いの喧嘩をしたという話も残っている。
1997年のレッスルマニア13以降、ハート・ファウンデーションが再結成され、ブレットは再びリーダーとして活動するようになった。しかしながら、この時期WWFはファミリー路線からD-Generation Xなどのアティテュード路線への転換期で、それに反発するブレットとWWFの関係は悪化。結果ブレットはWCWへ移籍することになった。ブレットに対しWWFはブレットが保持するWWF世界ヘビー級王座をカナダのモントリオールで開催されるSurvivor Series 1997でマイケルズに負けて渡す事を通告。しかしブレットは地元カナダでタイトルを返上する事を拒否。この結果ブレットとビンス・マクマホンは、「ブレットがマイケルズにシャープシューターをかけるもレフェリーのアール・ヘブナーが見ていなかったためマイケルズは負けを逃れ、その後ハート・ファウンデーション、D-Xが乱入し、翌日のRAWで王座を返上する」というシナリオにすることで同意した。しかし当日の試合中、マイケルズがブレットにシャープシューターを仕掛けた所で突如ヘブナーがゴングを要請し試合終了を宣言。ビンス・マクマホンがリングに現れた時点でブレットはビンスにはめられたと悟る。この様子はドキュメント映画「Wrestling with Shadows」で舞台裏が紹介され、モントリオール事件としてWWEファンの間で後々語り継がれる事件となった。
WCWに移籍後nWoにも加入したが、WWF時代のような目覚しい活躍も無かった。1999年のWWF興行中の事故で実弟のオーエン・ハートを失った際は、ビンス・マクマホンを強く非難した。同年11月21日、王座決定トーナメント決勝にてクリス・ベノワを破りWCW世界ヘビー級王座を獲得。翌月19日のビル・ゴールドバーグ戦後に王座を返上、翌日王座決定戦としてゴールドバーグと再戦して勝利し、タイトルを奪回。しかしこの試合中で受けたカウンター式の頭部へのトラースキックが原因で脳震盪を起こし長期欠場を余儀なくされ、2000年10月20日に解雇、同28日に引退を発表した。実際には2000年1月にもテリー・ファンクやケビン・ナッシュと数試合を行っているが、ブレット本人はゴールドバーグとの二連戦を自身の引退試合としている。
2002年には自転車を運転中に脳梗塞を起こして転倒し、左半身不随となるものの必死のリハビリで現在は通常の生活が送れるようになるまで回復した。
引退後もその人気は非常に高く、2005年にはビンス・マクマホンとプロレス史に残る和解を果たし、同年に「自身のベスト・アルバム」として活躍の模様と自ら選んだベストマッチをまとめたDVDがWWEより発売された。また、2006年WWE殿堂入りを果たした。現在は各地のサイン会などにも積極的に参加しているほか、再婚したイタリア人女性の実家とカルガリーとを往復する生活を送っている。
[編集] 得意技
- シャープシューター
- ペンデュラム・バックブリーカー
- ロシアン・レッグスウィープ(河津落とし)
- マンハッタン・ドロップ
- ブルドッキング・ヘッドロック
- セカンドロープからのエルボードロップ
[編集] タイトル履歴
- WWF
- WWF世界タッグ王座 : 2回(&ジム・ナイドハート)
- WWFインターコンチネンタル王座 : 2回
- WWF王座 : 5回
- WCW世界タッグ王座: 1回(&ビル・ゴールドバーグ)
- WCWユナイテッド・ステイツ王座: 4回
- WCW世界ヘビー級王座: 2回
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