坂口征二
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坂口征二 | |
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プロフィール | |
リングネーム | 坂口征二 ビッグ・サカ |
本名 | 坂口征二 |
ニックネーム | 世界の荒鷲 |
身長 | 196cm |
体重 | 125kg |
誕生日 | 1942年2月27日 |
出身地 | 福岡県久留米市 |
スポーツ歴 | 柔道 |
トレーナー | カール・ゴッチ 吉村道明 |
デビュー | 1967年8月5日 |
引退 | 1990年3月15日 |
坂口 征二(さかぐち せいじ、1942年2月17日 - )は、福岡県久留米市出身の元プロレスラー、柔道家(五段)である。世界の荒鷲と呼ばれた。196cm、125kg。近年、坂口憲二の父親として注目を浴びており、最近ではホンダ・エアウェイブのCMで憲二と親子共演を果たしている。
目次 |
[編集] 来歴・人物
久留米市立南筑高校卒業後、明治大学に進学。神永昭夫の指導を受ける。その長身を生かし、オリンピック前には「仮想ヘーシンク」として、神永のスパーリング・パートナーを務めた。卒業後旭化成工業に入社し、1965年、全日本柔道選手権で優勝。1966年の同大会で優勝を逃すと、引き止める柔道関係者を振り切り、翌年の1967年には旭化成を退社して日本プロレスに入団。すぐにアメリカに遠征しビッグサカと呼ばれ、メインを張る。帰国後はジャイアント馬場、アントニオ猪木に次ぐスターとなる。その後、馬場、猪木離脱後の日本プロレスのエースとなる。
その後、1973年に猪木と全く対等の条件という約束で新日本プロレス(新日)に入社。NET(現在のテレビ朝日)は坂口合流を条件にTV中継を開始。TV放送がなく観客動員に苦しみ倒産も時間の問題と言われた新日を救った。ゴールデンタイムで放送され、猪木・坂口は黄金コンビと呼ばれ、全日本プロレスをしのぐ人気を誇るようになる。しかし猪木と対等という条件は反故にされ、大功労者の坂口は猪木をサポートする側に回るようになる。
1974年9月、猪木とのコンビでクルト・フォン・ヘス&カール・フォン・ショッツ組に勝ち、北米タッグ王座を獲得。米国と日本で計4度目の挑戦での戴冠だった。その後この王座はストロング小林、長州力とパートナーを替えて保持する。特に小林とはパワーコンビとして多くの強豪チームを撃破した。1979年2月にはジョニー・パワーズを破り北米ヘビー級王座を獲得。新日合流後5年を経て漸くシングル王者となった。二冠とも1981年4月にIWGP参戦のため返上した。その後は時に存在感を示すこともあったが、概ね一歩退いたポジションに身を置くようになる。1985年のIWGP王座決定トーナメントで藤波辰巳に敗れ、名実共に二番手の座を譲り渡した。
1989年、新日本プロレスの社長に就任し、社長業に専念するため1990年3月に現役を引退した。社長として、東京ドーム興行や「G1 CLIMAX」など数々のビッグイベントを成功させ、前社長のアントニオ猪木が作った借金を完済した。後に藤波辰爾に社長職を譲り会長に退いた。CEOを経て、現在は相談役を務めている。2005年10月には、自らが主宰する「坂口道場」をオープンさせ、後進の指導に当たっている。
2003年には、高山善廣との遺恨が発生し、13年ぶりに限定リング復帰。9月14日に蝶野正洋と組んで高山&真壁伸也と対戦、10月13日にも高山率いる真猪木軍との5対5イリミネーションマッチに出場した。両試合、セコンドには次男で俳優の坂口憲二がついた。
かつて付き人に橋本真也がいたが、高級ドリンク剤を勝手に飲んでしまうなど酷い付き人だったようだ。だが、彼の葬式では「その分、人一倍かわいいんですよ」と話していた。
猪木とは対照的に人間的に実直であり、社長就任に際しては自ら簿記を習い、自宅を抵当に入れたこともあったという。このため金融機関から高い信頼を得て、猪木社長時代に生じた負債を完済し、新日本プロレスの発展に大きく貢献した。
また、ジャイアント馬場とも、親交を継続していたという。1990年の新日本のドーム大会では、目玉選手であったNWA世界ヘビー級王者・リック・フレアーが来日をキャンセルし、やむにやまれず坂口が当時冷戦状態だった全日本に選手貸し出しの依頼に赴いた際、馬場は「坂口なら信用できる」として快諾。ジャンボ鶴田、天龍源一郎、谷津嘉章、二代目タイガーマスク(三沢光晴)、スタン・ハンセンが全日本から貸し出され、新日本のリングに上がった。馬場が亡くなった時、猪木は(真意は判らないが)姿を消したのに対し、坂口は即座に藤波と共に駆けつけ、葬儀に参列した。坂口は馬場の没後、親しいプロレス誌記者に「馬場さんの手記を書かせてほしい」と語った。 2001年1月28日、東京ドームでのジャイアント馬場三回忌追悼&スタン・ハンセン引退セレモニーにも来場し、恩人の追悼とかつての新日本の外国人エースの引退に花を添えた。
テレビ朝日とのパイプも強かったと言われている。実際、坂口が代表職を退いた直後にワールドプロレスリングは縮小。レスラーとしては猪木に及ばなかったが、社長としての能力は遥かに長けており、坂口がフロント第一線として活躍していた時代に新日本は全盛期を迎え、第一線を退いた途端に暗黒期を迎えたのは厳然たる事実である。
元レフェリーのミスター高橋が自著の中でたびたび「日本人では坂口さんが最強」(猪木より強い)と書いて話題となった。ただし柔道選手時代から腰痛に悩んでいたと言われ、身体が柔軟性に欠ける面があり、プロレスラーとしての見せ場を作る技は猪木にかなわなかった。実力者でありながらプロレスラーとして不器用で人気がもうひとつだったという点で、ジャンボ鶴田や小川直也に共通点を見るファンも多いようだ。
[編集] 坂口道場
長男で格闘家の坂口征夫(ゆきお)たちと共に2005年9月に立ち上げたスポーツ・ジム「坂口道場」は、次男・憲二が突発的に出没するという期待感と、一般人でも気軽に通える非常にリーズナブルな会費、そして多彩なコース内容が話題を呼び、近隣の成城マダムを中心として親子共に入会者が殺到しており、現在パンク状態の超人気ジムである。
[編集] 獲得タイトル
[編集] 得意技
- アトミックドロップ
- ネック・ハンギング・ツリー
- 逆エビ固め
- アルゼンチンバックブリーカー
- ジャンピング・ニーバット
これらは総じて”荒鷲殺法”と呼ばれた
[編集] 新日本プロレスでの役職
- ~1989年6月 取締役副社長
- 1989年6月~1999年6月 代表取締役社長
- 1999年6月~2002年6月 代表取締役会長
- 2002年6月~2003年6月 代表取締役会長 兼 CEO
- 2003年6月~2005年3月31日 CEO
- 2005年4月1日~ 常勤相談役