イェニチェリ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
イェニチェリ(Yeniçeri)は、14世紀から19世紀の初頭まで存在したオスマン帝国の常備歩兵軍団のこと。常備軍団カプクルの中核をなし、火器で武装した最精鋭であった。トルコ語でイェニは「新しい」、チェリは「兵隊」を意味する。
オスマン帝国が拡大する過程で、従来の騎射を主戦術とするトルコ系軽騎兵の軍事力に頼らない君主の直属兵力として創設された。創始時期については諸説あるが、14世紀後半のムラト1世の治世とするのがもっとも知られる説である。当初はキリスト教徒の戦争捕虜からなる奴隷軍であったが、15世紀にキリスト教徒の子弟から優秀な青少年を徴集し、イスラム教に改宗させてイェニチェリなどに採用するデヴシルメ制度が考案され、定期的な人材供給が行われるようになる。
イェニチェリは長官であるイェニチェリ・アアス(Yeniçeri Ağası)以下部隊ごとに分かれて強い規律を持ち、16世紀までのオスマン帝国の軍事的拡大に大いに貢献した。同じ頃にヨーロッパで銃が普及し始めるといち早くこれを取り入れ、組織的に運用したことも大きい。
デヴシルメで徴集され、イェニチェリに配属されることが決まった者は、まず改宗の手続きがとられた後、ムスリム(イスラム教徒)の農民家庭に配置され、農業労働に従事するとともにトルコ語を習得させられた。次にアジェミー・オウランと呼ばれる身分に取り立てられ、首都などに兵営を持つ新兵軍団に配属され、次いでイェニチェリの増員・欠員補充の必要性に応じてイェニチェリ軍団に編入された。イェニチェリは君主直属の主力軍団として原則的に首都イスタンブルにある兵営に住まわされ、妻帯を禁じられるが、同時に高い俸給を与えられ、免税など様々な特権を享受した。
しかし16世紀後半以後、軍事技術の革新のため各国で火器を装備した常備歩兵が重要視されるようになると、オスマン帝国では必然的にイェニチェリが拡充される方向に向かい、人員が膨張すると同時に、首都のみならず帝国領内各地の都市に駐留させられるようになった。また、デヴシルメによらないで入隊した生まれながらにムスリムであるトルコ系の者が増え、妻帯も普通に行われるようになって軍紀が乱れるようになった。イェニチェリは各都市においてギルドと結びついて顔役・無頼のような行動をとり、政治にも介入した。特に首都ではしばしば反乱を起こして宰相を更迭させたり君主を廃位した。
18世紀後半に入るとイェニチェリはヨーロッパ各国の歩兵と比較すると完全に時代遅れとなり、改革が急務とされるようになる。セリム3世は1793年、イェニチェリとは別に新式歩兵軍「ニザーム・ジェディード」をつくり軍事改革を試みるが、イェニチェリの反対により廃位、幽閉され、のちに殺害されてしまった。セリム殺害後即位した従兄弟のマフムト2世は、漸進的な軍事改革を進めつつ西洋式軍団「ムハンマド常勝軍」を創立。1826年、その軍事力を使ってイェニチェリの兵舎を攻撃し、壊滅したイェニチェリは制度として廃止された。
オスマン帝国軍の軍楽、メフテルは西欧ではイェニチェリ音楽(Janissary Music)として知られている。