軽騎兵
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軽騎兵(けいきへい)は、楯と鎧の重装甲を帯び、敵の主力を壊滅させる目的で使われた重騎兵と違い、最小限の装備で足の速さを活かして後方かく乱を主とした戦闘を行う兵種である。
歴史的には、内陸ユーラシアの遊牧民の戦術に起源を持つ。この地域の牧民戦士は、遊牧生活の中で身につけた卓越した馬術と弓の技術によって弓騎兵として活躍し、近代的な火砲を基盤とする戦術が普及するまでは、ユーラシア大陸から北アフリカにかけての地域でもっとも有力な軍事勢力のひとつであった。
近代兵種としてはハンガリー王国で初めて用いられたユサール(ハサー、フザールとも呼ばれる)を示すことが多いが、竜騎兵や猟騎兵や槍騎兵やコサック騎兵も含んだ広義の呼び方もある。現在では、軽装甲車両や装甲兵員輸送車、オフロードバイクを主に用い、偵察を主任務とする部隊を軽騎兵 (light cavalry) と呼ぶこともある。
[編集] 特徴
軽騎兵は、甲冑のような防具を身につけないか、軽装備の防具のみを身につけ、剣や刀、弓、槍などを操り、戦闘を行う。他の騎兵部隊と同様に数が上回る敵に対して突撃をためらわない勇気が賞賛され、また略奪を頻繁に行うことから荒くれものの集団と同一視されていることが多い。無防備な集落や補給部隊の襲撃、略奪や敵情の偵察に多大な効果を上げたが、弓矢などの投射武器や長槍を装備し、規律の取れた部隊に対しては必ずしも有利といえるわけではなかった。また、馬の管理は想像以上の手間がかかり、長期にわたる攻城戦では足手まといとなることが多かった。渡河戦では水に足を取られて苦戦することもあり、船の輸送では疫病で馬が大量死することも多い。
重騎兵と共通する点の1つは、部隊の育成に手間がかかることであり、一度壊滅的な打撃を受けた場合には建て直すのには長い時間がかかったことである。熟練した乗り手になるには数年かかり、馬上で満足に戦闘が行えるようになるまではさらに数年がかかった。そのため、住民の大半が潜在的な軽騎兵である遊牧民社会以外では、その育成に非常な労力を要した。また、重騎兵と同じように時には、下馬して銃や槍での戦列に加わることもあった。
[編集] 歴史
軽騎兵は古くから用いられており、ギリシャ神話に登場するケンタウロスは馬を操り襲撃を行う中央アジアの遊牧民をモチーフとしている。都市文明地帯では馬に曳かれた戦車が東西を問わず青銅器時代から鉄器時代に用いられ、歩兵に対して多大な成果を挙げたが、自在な運動性に乏しく、数をそろえるのに多大な経済力を要することもあって、軽騎兵を主力とした非都市文明域の遊牧民の襲撃にはあまり有効な抵抗はできなかった。その後の戦車の廃止と騎兵の採用に不満を持つものは多く、東西を問わず蛮族と同じように馬に乗ることへの反発は大きかった。アレクサンドロス3世(大王)は軽騎兵を効果的に用いることで知られており、直属の重騎兵(ヘタイロイ)と共に投入してたびたび戦況を逆転させている。ローマ帝国もガリア人やゲルマン人などの傭兵からなる軽騎兵を効果的に用い、偵察や敵部隊の追撃などに使ったが、戦場の主力は歩兵であり、あくまでも補助が目的であった。
ヨーロッパではローマ帝国が解体するにつれ、軍隊の規模は縮小し、騎兵を配下に持つことの重要性が増加した。騎兵の襲撃に有効に対抗できるだけの規律の取れた歩兵の大部隊を維持することが非現実的と成り、規律もなく武器も貧弱な寄せ集めの歩兵に対しては、重騎兵の突撃や、部隊の弱点に器用に回りこんで投槍や弓矢で攻撃を仕掛ける軽騎兵の攻撃は大きな破壊力を持ったためである。維持に多額の金がかかる騎兵は、領主や大地主が騎兵指揮官となることが多かった。中世ヨーロッパでは重騎兵が兵科の花形となり、軽騎兵の地位は低下した。
遊牧地帯に近接しているため優秀な軽騎兵のリクルートが容易であり、気候の厳しさのため、重騎兵の運用が現実的ではなかった中東では、軽騎兵が重要視され、常備兵の歩兵部隊と共に軍の柱となった。特に、テュルク系の遊牧民出身の奴隷軽騎兵であるマムルークは、イスラーム社会において大きな地位を占めた。
中国では、騎兵の重要性は認識されていたが、度重なる遊牧民の襲撃に対しては、城壁や弓矢を中心とした歩兵部隊で対抗し続けたが、遊牧民に出自する集団が中華世界内部に浸透して漢族化することが繰り返されたため、彼らが重要な騎兵の供給源となった。そればかりでなく、多くの中華王朝が、こうした遊牧民に出自する軍事勢力によって樹立されている。モンゴル帝国の軍事的成功の大きな要因に騎兵、特に軽騎兵の大規模な運用があった事は疑うべくもない。
[編集] 関連項目