イロニー
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イロニーとは、irony(英)、ironie(独)の訳語であり、皮肉のことである。日常的用法では英語音のアイロニーが使用されるが、哲学、文芸批評用語として峻別する場合はドイツ語音のイロニーが使用されることがある。
- 思ってもみないことを言って同調し、暗に批判の意を含めること。通常はアイロニーを使用する。(→アイロニーを参照)
- 哲学、文芸批評用語として使用される、物事や特に言説に対して相対的で、断定を厭う振る舞いや人間の生存形式のこと。イロニーを使用することが多い。
- 修辞法として、反語のこと。
原語は、「偽装、仮面」を表すギリシア語のエイローネイア(参考文献1.)。
ここでは、1.を包含した2.の哲学、文芸批評用語としてのイロニーを説明をする。
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[編集] 概要
イロニーは歴史的にさまざまな用法を持つに至った言葉であるが、中核的な意味として維持されてきたのは、それが二つの志向性・意味を持つ発話を指す、という点である。この二つの意味と志向の間の関係が、さまざまなイロニーのバリエーションを規定しているといっていい。日本語での通例の「皮肉」というときは、表向きの無害な意味と、批判的な裏の、そして真の意味という関係になる。哲学者によってはすべての言葉がそうであるとされるが、イロニーは、言葉が、二重の意味を持っているというとき、そして殆どの場合は、そこに、一般的な意味と一般的でない意味という関係がある時に用いられる。「歴史の皮肉」や「ドラマティック・イロニー」などというように、必ずしも、この意味の二重性は、話者の意図に基くものとは限らない。
[編集] ソクラテス
ソクラテスのイロニーとは、かれが有名な「無知の知」の対話において、通常の意味ではかれも知っている事柄を、知っていないかのように振舞い、対話したという振る舞いにおいて現れた、かれの偽装、かのようにという振る舞い、二重の意図というありようをさして言う。ソクラテス的対話においては、このようにあえて無知を「装う」ことで、言葉が通常の慣れ親しんだ意味から離れ、哲学的な探求へと進む事になる。ここに見られるように、イロニーにおける「もうひとつの意味」は必ずしも批判的なものではなかった。
[編集] シュレーゲル
[編集] キルケゴール
キルケゴールは、学位論文『イロニーの概念について』などでイロニーについて言及している。キルケゴールは、まず古典的概念としてのイロニーと、当時ドイツで肯定的な評価が成されていた実存主義的概念としてのイロニーの2つに分類し、前者をソクラテスのイロニー、後者をロマン主義的イロニーとし、それらについて一定の評価を下しつつも、その問題点を挙げ否定的な見解を示している。
ソクラテスのイロニーの、偽装によって徐々に気付かせるという方法としての有効性や、無知の知にみられるような次の段階に飛躍しようとする姿勢は、自身の提唱するいわゆる実存の三段階説(自身がこの説を定式化したという点については留保がある)の最低位である美的段階を脱しつつある状態ではあれども、問題点としてその否定の無限性、つまり否定を延々と繰り返し終には不毛を生み出すという性質を挙げ、そこにその強いエゴを感じ批判している。ロマン主義的イロニーについては、典型例としてシュレーゲル、ティーク、ゾルガーを挙げ、その現実を転化させようという理想主義的な志向を評価し、同じく美的段階を脱しつつある状態ではあるとしながらも、問題点として、ソクラテスのイロニーには見られた主体性の欠如を挙げ、外界の転化を目指すばかりで自己を否定しない彼らの自己保持性は結局自己の内部に根差した真理へと帰結するに過ぎないとして批判している。 次いで、キルケゴールは、イロニーと並んでフモール(ユーモア)についても言及し、フモールは実存の三段階説における倫理的段階から宗教的段階へと至る中間的な存在であるとしている。
こうしてキルケゴールは、イロニー的立場の限界を指摘し、ひいては当時ドイツで主流を占めていた哲学思想に対しする、自身が重視するキリスト者的実存の優位を主張していく。(参考文献1.)
[編集] 参考文献
- 大屋憲一、細谷昌志編『キルケゴールを学ぶ人のために』世界思想社、1996年:所収、源宣子『イロニーとフモール』
[編集] 関連項目
- ルートヴィヒ・ティーク
- ミハイル・バフチン
- リチャード・ローティ
- ノヴァーリス
- ジャンケレビッチ
- ロマン主義
- 文学理論