インド国民会議
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インド国民会議(-こくみんかいぎ、INC:Indian National Congress)は、インドの政党。中道左派。国民会議派、コングレス党(Congress Party)とも称される。世界では中国共産党に次いで規模が大きい政治団体である(民主主義国家の中では世界最大)。
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[編集] 歴史
[編集] 発足当初
1885年、ボンベイ(現・ムンバイ)で、72人の代表を集めて第1回の会議が開催された。この会議は、インドにおける人種差別的行政に憤ったイギリス人官僚、アラン・オクタヴィアン・ヒューム(インドでは、鳥類の研究や教育行政の研究で名高い)が、インド知識人層の不満を吸収しつつ、インド人の政治参加を漸次拡大するための体制補完的、穏健的な団体として設立したもので、当初は、年末の四日間だけ活動する程度のものであった。これは、当時のインド総督の承認のもと開催され、「急増する反英勢力への安全弁」としての役割を期待されていた。しかし、19世紀末よりティラク、オロビンド・ゴーシュなどの急進派が台頭し、公然とスワラージ(自治・独立)を掲げる姿勢を見せた。1883年に全インド国民協議会を結成し、人種差別に反対していたS・バネルジーも全インド的な民族運動団体の設立を目指し合流し、穏健派を形成(後に脱退)した。設立当初のメンバーは、教育を受けた中間層エリート、産業界の代表らから成り、大衆にまで広く浸透していた団体とはいえなかったが、一貫して「民族的団結の強調」「英国による対印抑圧政治の批判」「民衆の貧困」を強調したことは、民族運動初期の、インド大衆世論の形成に大きな役割を果たした。
[編集] 国民会議カルカッタ大会
1905年、ベンガル総督のカーゾンによって定められたベンガル分割令(カーゾン法)は、反英抵抗運動の分断を図るものとみなされた。これに対し、1906年にカルカッタ(現・コルカタ)で開催された国民会議で、急進派の主導によってカルカッタ大会4綱領が採択された。内容は英貨排斥(イギリス商品のボイコット)、スワデーシー(国産品愛用)、スワラージ(自治・独立)、民族教育の4つであった。しかし、カルカッタ大会の後に、穏健派と急進派は分裂状態となった。当時の急進派の中心人物であったティラクが投獄されたこともあり、再び国民会議は穏健派主導となった。
[編集] 第一次大戦後の国民会議
第一次世界大戦後にマハトマ・ガンジー、ジャワハルラール・ネルー、チャンドラ・ボースらが加わり、インド独立に大きな役割を果たした。1915年に南アフリカから帰国して以来地方の闘争で成果をあげていたガンジーは、独自の指導でネルーらの左派とパテルらの右派に分裂していた国民会議を統一した。1920年にはガンジーの「非暴力」を綱領として採択し、地方組織を強化して本格的な政党となった。1947年8月にインドが独立すると社会主義者のネルーが首相となり、政治的には一党優位体制「コングレスシステム」と政教分離主義(セキュラリズム、世俗主義)を、経済的には社会主義型の開発を、国際的には反米親ソの非同盟中立外交を展開、以後1977年の総選挙でジャナタ党に敗れるまで国民会議が政権を独占した。2004年総選挙では統一進歩連盟(United Progressive Alliance:UPA)の中心となって政権を奪還し、2005年現在、インド下院の第一党。
[編集] 参考文献
- ヴェド・メータ『ガンディーと使徒たち 偉大なる魂の神話と真実』新評論、2004年12月。ISBN 4794806485
[編集] 豆知識
日本語訳が異なるので判りにくいが、南アフリカのアフリカ民族会議(ANC:African National Congress)の党名も、この党に範をとっている。
[編集] 外部リンク
インド国民会議(英語、ヒンディー語)
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