マハトマ・ガンジー
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モハンダス・カラムチャンド・ガンジー (Mohandas Karamchand Gandhi, デーヴァナーガリー: मोहनदास करमचन्द गांधी, グジャラート語: મોહનદાસ કરમચંદ ગાંધી, / 1869年10月2日-1948年1月30日)は、インドのグジャラート出身、マハトマ・ガンジー(=マハートマー・ガーンディー:Mahatma Gandhi)として知られるインド独立の父、宗教家、政治指導者。「マハートマー(महात्मा, Mahatma)」とは「偉大なる魂」という意味で、インドの詩聖タゴールによって送られたとされているガンジーの尊称である。また、インドでは親しみをこめて「バープー」(बापू:「父親」の意味)とも呼ばれている[1]。
1937年から1948年にかけて、計5回ノーベル平和賞の候補になったが、本人が固辞したため、受賞には至っていない。
ガンジーの誕生日にちなみ、インドで毎年10月2日は「ガーンディー・ジャヤンティー」(गांधी जयंती:「ガンジー記念日」)という国民の休日である。
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[編集] 人物
南アフリカで弁護士をする傍らで公民権運動に参加し、帰国後はインドの英国からの独立運動を指揮した。その形は民衆暴動の形をとるものではなく、「非暴力・不服従」を提唱した。この思想(彼自身の造語によりサッティヤーグラハすなわち真理の把握と名付けられた)はインドを独立させ、大英帝国を英連邦へと転換させただけでなく、政治思想として植民地解放運動や人権運動の領域において平和主義的手法として世界中に大きな影響を与えた。特に彼に倣ったと表明している者にマーティン・ルーサー・キング・ジュニア、ダライ・ラマ14世等がいる。
性格的には自分に厳しく他人に対しては常に公平で寛大な態度で接したが、親族に対しても極端な禁欲を強いて反発を招くこともあったという。またナチスのホロコーストに関し、ユダヤ人にも一貫して非暴力・不服従を説いたとされ、シオニズム支持者の中には非現実的であると批判する声もある。
[編集] 経歴
[編集] 生い立ち
植民統治時代のインド、現在のグジャラート州の港町ポールバンダルで、当時のポールバンダル藩王国の宰相カラムチャンド・ガンジーとその夫人プタリーバーイーの子として生まれた。ヒンドゥー教の家庭に生まれ育ったガンジーは、19歳でロンドンに渡り、インナー・テンプル法曹学院に入学し、弁護士となる勉強をする。
[編集] 弁護士に
卒業後、1893年には南アフリカで弁護士として開業し、南アフリカの人種差別法に対してインド人の法的権利を擁護する活動に従事した。1880年代以降、ガンジーはバガヴァッド・ギーターとレフ・トルストイの影響の下に、後の非暴力運動思想を形成していく。
20世紀初頭には、南アフリカ連邦(現在の南アフリカ共和国)において、インド系移民の差別に対する権利回復運動を行った。この時の経験は1915年にインドに帰国してからの民族運動にも生かされている。第一次世界大戦が起こると、イギリスは将来の独立を約束して、大英帝国下のインド人に協力を求めた。ガンジーはこの約束を信じ、インド人へ軍への志願を呼びかける運動を行った。しかし戦争がイギリスの勝利に終わると、独立は問題として取り上げられなくなった。このことはガンジーに、イギリスへの協力が独立へとつながらないという信念を抱かせるようになった。
[編集] 不服従運動
第一次世界大戦後は、独立運動をするインド国民会議に加わり、不服従運動で世界的に知られるようになる。またイギリス製品の綿製品を着用せず、伝統的な手法によるインドの綿製品を着用することを呼びかけるなど、不買運動を行った。「インドの糸車を廻すガンジー」の写真はこの歴史的背景による[2]。
こうした一連の運動のために、ガンジーはたびたび投獄された。たとえば1922年3月18日には、2年間の不服従運動のために、6年間の懲役刑の判決を受けている。第一次の不服従運動は、1922年にインド民衆が警察署を襲撃して20人ほどの警官を焼死させる事件が発生し中止されたが、1930年より不服従運動は再開された。とりわけ、「塩の行進」と称されるイギリスの塩税に抗議した運動は有名である。
[編集] ガンジーとカースト制度
日本では彼を「平和のヒーロー」とする傾向が強いものの、インドの文化であっても実際には身分差別となっているカースト制度への取り組みはなされなかった点は無視できない。確かにガンジーは「不可触民」を撤廃しようとはした。だがしかし、この不可触民を生み出し彼らを苦しめる「カースト制度」そのものを撤廃する運動はしていない。カースト制度はインドの文化そのものであるといっても過言ではないが、彼は実際には差別の根源であるカースト制度そのものを否定することはしなかった。このことについてはビームラーオ・アンベードカルを参照のこと。
[編集] 暗殺
ガンジーはヒンドゥー教徒だけでなくイスラム教徒にも影響を与えている。1947年8月のインドとパキスタンの分離独立の前後、宗教暴動の嵐が全土に吹き荒れた。ガンジーは何度も断食し、身を挺してこれを防ごうとした。しかし、ヒンドゥー原理主義者からはムスリムに対して譲歩しすぎるとして敵対視された。1948年1月30日、ガンジーはニューデリーのビルラー邸で狂信的なヒンドゥー原理主義者(と一般に知られている)ナートゥーラーム・ゴードセー(नाथूराम गोडसे)らによって暗殺された。
3発のピストルの弾丸を撃ち込まれたとき、ガンジーは「神よ」(「ヘー ラーム हे राम」)とつぶやいて事切れたという。国葬が行われ、遺灰は、ヤムナー川とガンジス川に撒かれた。
[編集] 主義・信条
ガンジーの哲学、サティヤーグラハ(सत्याग्रह)とアヒンサー(अहिंसा)の思想は、『バガヴァッド・ギーター』、ヒンドゥー教、ジャイナ教、そしてレフ・トルストイの平和主義(「神の国は汝のうちにあり」)に影響されている。非暴力(アヒンサー)という概念はインド宗教史上長い歴史を持ち、ヒンドゥー教、仏教(仏陀に代表される)、ジャイナ教の伝統において何度もよみがえった。自らの思想と生き方を、ガンジーは自伝 (The Story of My Experients with Truth) の中で語り、「『目には目を』が全世界を盲目にしている」と述べた。こうした信条を実行に移すとき、彼は極限まで論理的につきつめることを辞さなかった。1940年、ナチス・ドイツの武装勢力がいよいよイギリス諸島(英本土)に侵入しようとしたとき、ガンジーは英国民に次のように助言した。
- 持っている武器を下に置いてほしい。武器はあなた方を、ないしは人類を、救う役には立たないのだから。あなた方はヘル・ヒトラー (Herr Hitler) とシニョール・ムッソリーニ (Signor Mussolini) を招きいれることになるだろう。あなた方の国、あなた方が自分たちのものと称している国から、かれらは欲しいものを持っていってしまうだろう。もしこの紳士たちがあなた方の故郷を占領したなら、あなた方は立ち退くことになる。もし、かれらが脱出を許さなかったなら、あなた方は男も女も子どもも、虐殺されることになる。しかしあなた方は、かれらに忠誠を尽くすことは拒むだろう。
またガンジーはユダヤ人とチェコ人に対し、ナチスの占領に対する非暴力の抵抗活動として、集団自殺を勧めた。1946年6月、彼は伝記作者ルイ・フィッシャー (Louis Fischer) にこう語った。
- ヒトラーは500万人のユダヤ人を殺した。これは我々の時代において最大の犯罪だ。しかしユダヤ人は、自らを屠殺人のナイフの下に差しだしたのだ。かれらは崖から海に身投げすべきだった。英雄的な行為となっただろうに。
ガンジーはインドを初めて離れたときこそ肉食を試みたが、のちに厳格な菜食主義者になった。英国では菜食主義者協会 (Vegetarian Society) の集会に参加して菜食主義運動家ヘンリー・ソールト (Henry Salt) に出会い、この問題について、ロンドンに滞在するあいだ何冊かの本を著した。菜食主義の思想はインドのヒンドゥー教およびジャイナ教の伝統、そして彼の故郷グジャラートに深く根づいており、ヒンドゥー教徒のほとんどが菜食主義者であった。彼はさまざまな飲食物を試したのち、菜食は体に必要な最低限度を満たすという結論に達した。彼は長期間食事をとらず、断食を政治的な武器として用いた。死ぬまで、または要求が叶えられるまで、食事をとることを拒んだのである。
13歳で結婚して5人の子供がいたガンジーは、生来人一倍性欲が強かったが、妻と愛欲に耽っていたために父の死に目に会えなかった経験から性欲を恥じるようになり、36歳の時、結婚したまま一切の性行為を断って禁欲を開始することを決意した。このような絶対的な禁欲はブラフマーチャーリヤ(ブラフマンすなわち宇宙の最高原理の探求)と呼ばれ、ヒンドゥー教の苦行者の間で昔から行われていた。ガンジーのユニークな点は、結婚と家庭を維持したまま禁欲生活を送ったことである。ガンジーはこのブラフマーチャーリヤを自らの指導する非暴力不服従運動の基礎であると考えていた。ガンジーはブラフマーチャーリヤを生涯追求し、1948年78歳で暗殺される直前まで「ブラフマーチャーリヤの実験」を行っていた。ヴェド・メータの『ガンディーと使徒たち』によれば、晩年のガンジーは裸体の若い女性たちとベッドを共にして「自分がほんのわずかでも性欲を感じないか」を確かめようとしたという。ガンジーはこの実験を秘密にしなかったので、各方面から厳しい批判を受け、弟子たちもこれを批判した。ガンジーによれば裸の若い女性と裸で同衾するのは「自分が身も心も純粋で色情からも肉欲からも自由なことをテストするため」であった。弟子たちは「あなたは有名なマハートマーじゃありませんか。こういう見苦しいことをしてまで自分をテストする必要はないでしょう」などと忠言したが、ガンジーは聞き入れなかった。
ガンジーは週に一度を沈黙して過ごした。話すのを控えることで、心の平穏が得られると信じたのである。これは モウナ(मौन:沈黙)と シャーンティ(शांति:平穏) というヒンドゥー教の理念から来るものであった。沈黙を守る日には、筆談によって他人と意思疎通した。ガンジーは37歳からの3年半、騒然とした世界情勢は心の平穏ではなく混乱をもたらすとして、新聞を読むことを拒んだ。
[編集] 現代におけるガンジー
独立後半世紀以上もの年月が経つにつれ、ガンジーならびに彼の思想はインドの社会一般において往時のような輝きを失ってきているといえる。これはガンジーが世界中で「偉人」として認知され、その思想に共感する人々の輪を広めてきた事と対照的とも言える現象である。
独立後20年近くの期間にも渡って国民会議がインド全土で政権の座を握り続けていられたのは「独立の父」ガンジーの威光によるところも大きく、それゆえ独立後間も無く暗殺されたガンジーは殊更に神格化されてきたとも言える。しかしながら、ガンジーの後継者とされた独立後初代首相のネルーは、経済政策の上ではガンジー主義(Gandhism)に真っ向から対立するネルー主義(Nehruvism)開発経済体制を導入し、生前ガンジーが反対していた産業の機械化・工業化を積極的に推し進めた。このため、インドで多くの人々がガンジーを「国家を独立に導いた偉大な人物」として表向きには称える一方、その反面では彼の人物像やその思想に対して「時代遅れで非現実的」という評価を下す風潮が徐々に顕在化してきた[3]。
そのような状況の中、新たな形でのガンジー再考の試みが映画や演劇などの分野でなされてきている。なかでも現在インドで最も注目を集めているのが、2006年にインドで公開された『Lage Raho Munnnabhai』(लगे रहो मुन्नाभाई, ラゲー・ラホー・ムンナーバーイー)というヒンディー語映画である。作品中ガンジーは、主人公である街のヤクザ者にだけ見える存在として登場し、DJとしてラジオで電話相談をする事になった主人公の口を通して街の人々に様々なアドバイスを与えている。この作品は、いくつもの批判を呼び起こしながらも、人々が新たな角度からガンジーについて考え直す大きな契機を作り出す事に成功し、娯楽作品としての大ヒットも合わせて大きな注目を浴びた。特にこの映画中で提唱された「ガーンディーギリー」(गांधीगिरी, Gandhigiri)という言葉は、ガンジー主義を意味する旧来の「ガーンディーヴァード」(गांधीवाद)という言葉が帯びていた、「理念的過ぎて現実的ではない」というイメージを払拭する役割を果たし、にわかにインドでの流行語ともなっている[4]。
[編集] 参考文献
- 蝋山芳郎訳『ガンジー自伝』中央公論新社、2004年2月改版。ISBN 4122043301
- ヴェド・メータ、植村昌夫訳『ガンディーと使徒たち 偉大なる魂の神話と真実』新評論、2004年12月。ISBN 4794806485
[編集] 関連項目
- ジャワハルラール・ネルー
- ラース・ビハーリー・ボース
- スバス・チャンドラ・ボース
- ムハンマド・アリー・ジンナー
- ルイス・マウントバッテン
- ビームラーオ・アンベードカル (B. R. Ambedkar)
- ガンジー(1982年公開の映画)
[編集] 脚注
- ^ 日本では「マハトマ・ガンジー」(ないし「-ガンディー」)というカタカナ表記が慣例的に使用されているが、原語の表記における短/長母音の区別をカタカナ表記にも反映させるならば「マハートマー・ガーンディー」となる。
- ^ 余談だが、この写真を撮影した『ライフ』誌のマーガレット・バーク=ホワイトから執拗にフラッシュを浴びせられたガンジーは「彼女は私の目を焼こうとしている」と洩らしたという。
- ^ もちろん、独立前~直後の時期においてもガンジーに対するその様な評価は少なからず存在していた。独立運動においてガンジーは「大多数」の支持を得た指導者かもしれないが、彼の方針に同調しない様々な思想を掲げた運動家およびその支持者は当時も各地に多数存在していた。
- ^ ちなみに、この「~ギリー」というのは、ムンバイヤー・ヒンディー(ムンバイで話される特徴的なヒンディー語の口語)において用いられる「~に特徴的な一連の行動」というような意味の接尾辞である。
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