インノケンティウス3世 (ローマ教皇)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
インノケンティウス3世(Papa Innocentius III,1161年2月22日ガヴィニャーノ - 1216年7月16日ペルージャ)は12世紀のローマ教皇(在位:1198年 - 1216年)。
[編集] 生涯
本名はロタリオ・デイ・セニ(Lotario de' Conti di Segni)。イタリアの名門貴族の家柄に生まれ、パリ大学で神学を、ボローニャ大学で法律を修めて聖職に就く素地を養った。彼はその深い学識と人柄を見こまれ、叔父のクレメンス3世によって1189年に助祭枢機卿に叙任された。1198年ケレスティヌス3世の死去に伴い、枢機卿たちは満場一致で、弱冠37歳である最年少の助祭枢機卿のロタリオを新教皇に選出。176代ローマ教皇インノケンティウス3世は現実的精神と学問の素養を兼備した教皇として、世俗権力との対立、十字軍派遣、異端対策と数多くの困難に対して優れた手腕を発揮し、ローマ・カトリック教会はその絶頂期を迎えた。1216年逝去。対外的には暴君的であるとの批判も多い。「教皇は太陽、皇帝は月」と豪語したといわれる。
[編集] 業績
インノケンティウス3世は、グレゴリウス7世の改革と教権統治の思想を受け継ぎ、ローマ教皇庁の強化と教皇領の失地回復を図った。
- 神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世の急死後、ドイツ国王選挙の際に、教皇権を太陽、皇帝権を月に喩えて仲裁を行った。オットー4世を支援し、のちにオットーはローマで皇帝として戴冠された(1209年)が、オットーが約束に反してイタリア領を要求するに及び、これを破門した。
- フランス国王・フィリップ2世の離婚問題に干渉し、さらにイギリス王のジョンを破門し、臣従を誓わせた後に赦免した。
- 第4回十字軍の遠征が行われる。ただし、この十字軍は勝手に行き先を変更し、ハンガリーを攻撃したため、教皇に破門される。また1204年にコンスタンティノープルを占領して、ラテン帝国を建設した。
- ワルドー派、アルビ派の異端対策に努めた。カタリ派に対しても説得を行っていたが、教皇使節が殺害されるに及んで、1209年アルビジョア十字軍を派遣した。(派遣軍は大量虐殺を行った)
- 1210年アッシジのフランチェスコとドミニクスに面会する。新托鉢修道会の設立を認可した。
- 1215年第4ラテラン公会議を開催した。
[編集] 著書
- Contemptu Mundi(現世を軽蔑すること)
- De Miseria Condicionis Humane(人間悲惨論、邦訳『人間の悲惨な境遇について』南雲堂、1999年)
- ジョン・ウィクリフ『神命論(De Mandatis Divinis)』やウィリアム・ラングランド『農夫ピアーズの夢』、ジェフリー・チョーサー『カンタベリー物語』などにも引用されるほど、広く読まれ、影響が大きかった。
|
|
|