ジョン (イングランド王)
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ジョン(John, 1167年12月24日 - 1216年10月18日または10月19日)はプランタジネット朝第3代イングランド王(在位:1199年 - 1216年)。イングランド王ヘンリー2世の末子。ヘンリー2世が幼年のジョンに領土を与えなかったことから、欠地王(Lackland)と呼ばれる。
大陸領土喪失、教皇への屈服、諸侯の反乱と軍事的・外交的失政が目立ち、強制されてマグナ・カルタを認めたことのみが強調され、イングランド最悪の君主と評価されることが多い。
しかしながら、国内における司法・行政には一定の成果を収めており、深刻な財政難は、彼自身の軍事的失敗だけでなく、先王リチャード1世が費やした莫大な軍事費にも帰するものであり、単なる暗愚な君主という評価は一面的であるという見方もある。
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[編集] 概要
兄リチャード1世が戦いに明け暮れ長くイングランドを留守にしたため、イングランド王の勢力を削ごうとするフランス王に唆されて王位簒奪を夢見ていた。
本来王位につく可能性は少なかったが、1199年にリチャード1世が中部フランスで戦死してから、状況が一変する。リチャードは弟ジェフリー(ジョンには兄にあたる)の遺児アーサーを王太子に擬えていたが、アーサーがリチャードの戦死の一因となったフランス王フィリップ2世と近かったことから、前王の重臣ヒューバード・ウォルターをはじめとするイングランド国内の諸侯がアーサーを排除した事により、代わってジョンがイングランド王を継承したのである。
王位に就いたジョンは、フランス国内の領土をめぐってフィリップ2世をはじめとするフランスの諸侯と対立した。1203年、アーサーがジョン支持派に暗殺されると、アーサーの後見人を自負するフィリップ2世との全面戦争に突入するが、その戦いにことごとく敗れ、1214年までにフランスにおけるイギリス領をほとんど喪失した。また1208年には、ヒューバード・ウォルター亡き後に空位となっていたカンタベリー大司教の任命をめぐって、ローマ教皇インノケンティウス3世が推したスティーヴン・ラングトンを拒否するなど教皇と対立した。当初は多くの諸侯がジョンを支持したが、1209年に教皇はジョンを破門し、さらに教皇やラングトンの取り崩しが徐々に功を奏すると、ジョンは1213年に謝罪して教皇に屈した。その時一旦イングランド全土を教皇に献上し、教皇から与えられる形で国王に返還された。
こうした外交政策の失敗の後、軍役代納金、課税をめぐってイングランド国内の諸侯から反発を招き、1215年に国王が貴族や聖職者の権利を認めるという形でマグナ・カルタが成立した。しかし、教皇インノケンティウス3世による王権侵害でわずか2ヶ月で廃棄された。マグナ・カルタの廃棄宣言に不満を持つ貴族たちは、フィリップ2世の長男ルイの支援を得て反乱を起こした。戦乱の中、1216年10月にジョンは赤痢により死去した。
[編集] 領地無し
父王ヘンリー2世は、(嫡出の中では)末子のジョンを最も愛し、1184年にはアキテーヌ公領をジョンに与えようとして、リチャードの離反を招き、1185年にはアイルランド(アイルランド卿)をジョンに与えたが、ジョンは実効支配できず、まもなく逃げ帰っている。1188年の父王とリチャードの争いにおいては、当初は父王についていたが、リチャードの勝利が確実になると寝返り、父王に大きな失望を与え、その死因になったとも言われる。
1189年にイザベル・オブ・グロスターとの婚姻によりグロスター伯領を受け継いだ。
[編集] 陰謀
リチャード1世が第3回十字軍に出陣した際は、フランスに留まるよう指示されたが、勝手にイングランドに戻り、留守中の統治に関与した。リチャード1世がドイツで幽閉されると、フランス王フィリップ2世と提携しイングランド王位を狙ったが、重臣や諸侯の支持を得られず、果たせなかった。
この事件は、後世、大きく脚色されてさまざまな物語が作られ、ロビン・フッド伝説にも取り入れられた。
[編集] 即位
1194年にリチャード1世がイングランドに戻ると、一旦抵抗の姿勢を見せたものの、まもなく屈服し和解した。1199年にリチャード1世がアキテーヌで亡くなると、ジョンはすぐにノルマンディからイングランドに渡り、イングランド王として戴冠した。一方、一時は後継者とされていた甥のブルターニュ公アルツール(アーサー)はアンジュー伯領を確保して、王位を主張したが、ヒューバード・ウォルターを始めとするイングランドとノルマンディの諸侯は、フランス王と親しかったアルツールより、ジョンを支持した。母のアリエノール(エレアノール)はアキテーヌを押さえて、ジョンを支持している。
[編集] 大陸領土喪失
1200年にジョンは既に婚約者のいたイザベラ・オブ・アングレームと結婚した。イザベラの婚約者ユーグ・リュジニャンは封建主人であるフランス王にこれを訴えたため、1202年にフィリップ2世はジョンを法廷に呼び出した。イングランド王はフランス領においてフランス王の封建臣下であるが、これまで法廷に呼び出されたことはないためジョンは拒絶したが、フィリップ2世はこれを理由に、ジョンの全フランス領土を剥奪することを宣言し、ノルマンディ以外のこれらの領土をアルツールに与えた。このため、フィリップ2世、アルツール対ジョンの戦争となり、当初、ジョンは劣勢だったが、1203年にアルツールがポワチェにいたジョンの母アリエノールを捕らえようとした際、ジョンは迅速に対応し、逆にアルツールを捕らえた。
幽閉されたアルツールはまもなく消息不明となり、人々はジョンがアルツールを殺したと考え、ブルターニュの諸侯はフランス王を頼って、ジョンに反旗を翻した。ジョンはフランスにおける人望を既に失っており、フランス王の攻勢の前に、ノルマンディ、アンジュー、メーヌ、トウレーヌ、ポワチェはほとんど抵抗せずに降伏した。わずかに、アキテーヌの中心地であるガスコーニュのみがジョンの下に残った。アキテーヌは元々諸侯の力が強く、彼らは強力なフランス王より、弱体化したイングランド王の支配を好んだためとされる。
[編集] 教皇との争い
1205年に、カンタベリー大司教ヒューバード・ウォルターが亡くなると、修道士達が選んだ候補とイングランド王、司教が推薦した候補とが共にローマに行き、カンタベリー大司教の座を争ったが、教皇権の強化を狙っていたローマ教皇インノケンティウス3世は両者とも認めず、代わりに枢機卿のラングトンを任命した。ジョンはこれを認めず、これを支持する司教たちを追放し教会領を没収したため、1207年にインノケンティウス3世はイングランドを聖務停止(interdict)とし、1209年にジョンを破門した。
ジョンはこれを無視し、却って没収した教会領の収入で軍備増強を計っていたが、1213年になるとインノケンティウス3世はさらにフランス王のイングランド侵攻を支持し、これに呼応して諸侯の反乱が計画されたため、ジョンはイングランドをローマ教皇に寄進し、教皇の封建臣下となることにより破門を解かれた。
[編集] ブービーヌ
大陸領土を失ったジョンは、ウェールズ、アイルランド、スコットランドへの影響力の強化に努め、一時的な成果を挙げている。さらに、大陸領土奪回のために、海軍を整備し、フランス王と対立する神聖ローマ皇帝オットー4世やフランドル伯と提携を深めたが、大陸領土喪失による収入減に加えて軍事力強化を図ってイングランドに重税をかけたため、諸侯、庶民の不満は高まった。
一方、ジョンが教皇の封建臣下になったため、フランス王によるイングランド侵攻への教皇の支持は撤回された。フランス王は代わりに、かねてから反抗しているフランドル伯を攻めたが、イングランド海軍の援軍により、フランス王軍は船舶の大半を失って撤退した。
好機到来と考えたジョンは、オットー4世らと謀って、フィリップ2世を南北から挟撃する計画を立てた。ジョンがフランス南部に進撃し、同時にドイツ、フランドル軍がフランドルからフランスに侵入するというもので、1214年に入るとジョンはギエンヌから侵攻し、ポワティエ、アンジューを回復したが、オットー4世はドイツ諸侯の動員に手間どり、進軍が遅れた。この間に、フィリップ2世は王太子ルイを南部に派遣したため、ジョンは戦線を支えきれず、ギエンヌに撤退してしまった。こうして、南部の負担が少なくなったフィリップ2世率いるフランス王軍と皇帝連合軍が1214年7月27日にフランドルのブービーヌで会戦し、数で劣るフランス軍が皇帝連合軍を打ち破った(ブービーヌの戦い)。
これにより、フィリップ2世の優位は確定し、ジョンは占領地を全て放棄して撤退を余儀なくされた。連合軍に参加したフランドル伯、ブローニュ伯は捕虜となり、オットー4世はフリードリヒ2世に皇帝位を奪われることになる。
[編集] マグナ・カルタ
イングランドに戻ったジョンを待っていたのは、諸侯から庶民にいたるまでの不満であり、強圧を持ってこれを抑えようとしたジョンに対して、諸侯は結束して反抗し、内戦状態となった。しかし、ジョンを見限るものが多く、1215年6月15日にラニーミードにおいてマグナ・カルタ(大憲章)を認めることで和解した。
まもなく、ジョンは教皇に働きかけ、マガナ・カルタの破棄、反乱諸侯の破門を命じてもらい反撃に転じたが、諸侯はフランス王太子ルイを担ぎ、一時はルイがロンドンを占拠するまでになった。しかし、1216年10月にジョンが赤痢で病死すると、諸侯は息子のヘンリー3世を支持したため、ルイは撤退を余儀なくされた。
[編集] 妻
- イザベル・オブ・グロスター - 1200年離婚。王妃とは認められなかった。
- イザベラ・オブ・アングレーム - ジョンと死別後、かつての婚約者と再婚した。
[編集] 評価
無能、暴虐、陰謀好き、裏切り者、恥知らずと評され、大陸領土喪失、甥殺しによる信望の喪失、教皇への屈服とイングランドの寄進、重税、諸侯の反乱と失政が続き、唯一評価されるのは「強制されてマグナ・カルタを認めイギリスの民主主義の発展に貢献した」ことのみと、在位当時から後世の評価まで徹頭徹尾、評判の悪い王である。近年ではその反動から、海軍の育成やリヴァプールの建設、スコットランド、ウェールズ、アイルランドへの支配の道筋を付けたという点で再評価する声も出てはいるが、イングランド史上最悪の君主という暗君の評価は覆りそうもない。
[編集] 俗説
- 「ジョンの評判が悪かったため、以降のイングランド王・イギリス王でジョンを名乗ったものはいない」という通説があるが、これは半分しか当たっていない。プランタジネット朝にはジョンという名の王子は何人もおり(ランカスター家の祖もジョン・オブ・ゴーントである)、たまたま早世したり、兄が健在だったりして王になれなかっただけである。その一方で、長子に親の名を付ける習慣があったにも関わらず、ヘンリー3世が長子をジョンと名づけず、エドワード懺悔王にちなんでエドワードと名づけたのは、諸侯の強いジョンへの抵抗感を考慮したためであり、またテューダー朝以降に付けられなくなったのは、やはり人気がないからかもしれない。
- あだ名(Lackland)は、元々幼いころ領地をもらえなかったことから付いたものだが、対仏戦争の敗北で広大な大陸領土を失ったため、人々の記憶に残ることになった。このためあだ名を「失地王」とする誤訳が日本で広まっている。
[編集] 関連項目
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