ウィリアム・ハウ
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ウィリアム・ハウ(Sir William Howe,1729年8月10日 - 1814年7月12日)は、イギリス軍の将軍であり、アメリカ独立戦争の時、イギリス軍の総司令官であった。彼の戦争における業績は、ボストン攻撃のときの英雄的な戦い振りや、ニューヨーク市およびフィラデルフィア市の占領などの成功の反面、サラトガの戦いでの敗北によってフランスを戦いに引き込んだがために、マイナスの評価がなされている。
ウィリアム・ハウはエマニュエル・ハウ子爵とメアリー・ソフィアの3番目の息子としてロンドンに生まれた。メアリーの母ソフィア・シャーロットはイギリス王ジョージ1世の異母姉妹であった。この王家との縁戚関係がハウ家3人兄弟の出世に貢献したが、3人とも有能であったことも事実である。ウィリアムの長兄ジョージも将軍であり、1758年のタイコンデロガの戦いで戦死した。次兄のリチャードは海軍の提督であり、アメリカ独立戦争に関わっている。
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[編集] 経歴
ハウは1746年17歳の時にカンバーランド公竜騎兵隊に少尉として入隊した。翌年のオーストリア継承戦争では、中尉としてフランドルで戦った。その後第20歩兵連隊に入り、ジェームズ・ウルフと知り合った。
7年戦争の時、初めてアメリカの地を踏んでいる。この戦争ではさして評価を上げなかったが、ルイスブルグ要塞攻略戦では連隊を指揮して上陸を成功に導いた。この戦いでは銃火の中で側面攻撃を成功させ指揮官としての評価を高めた。
ハウは、1759年9月13日のケベックの戦いではウルフ将軍のもとで、軽装歩兵を指揮した。彼はアブラハム平原の陣地取りに成功し、ウルフの部隊が進撃する道を作った。この戦功で彼は准将に昇進した。帰国前のモントリオール占領戦でもジェフリー・アマースト将軍のもとで勲功を立てた。さらに1761年フランス海岸のベル島占領にも従軍している。また、1762年ハバナの攻防戦では副官を務めた。
1761年の国会議員選挙で彼はノッティンガムの代表となった。この時の選挙は異常であり、60人以上の軍人が選出されている。彼は一般的にはアメリカ植民地に同情的であった。高圧的な諸法に反対し、1774年にはアメリカに対する当時の義務に反対することを選挙民に約束している。しかし、時は至り1775年、ジョージ3世の召集に応じてアメリカの戦場に向かった。
[編集] アメリカ独立戦争
ハウ少将はトーマス・ゲージ将軍への援兵4000名を引きつれて5月15日にボストンに到着した。ゲージ将軍の命令は大陸軍をボストンから排除することであった。ハウの計画はケンブリッジを占拠することだったが、大陸軍はその地に高い砦を築いていた。
[編集] バンカーヒル
ハウは大陸軍を総攻撃で破ろうと考えた。これが、1775年6月17日のバンカーヒルの戦いである。彼自身は左翼を受け持ち、その指揮振りは際だっていたので目標を攻略できたが、その代償も大きかった。ゲージ将軍は「高価な勝利だが、もう一度やったら我々の破滅だ」と言った。 彼は戦闘で傷つくことは無かったが、その戦闘心に大きな変化が起こった。ウルフ将軍の副官だった時は大胆不敵な指揮官だったが、慎重になり、直接対決を求めない将軍になった。彼の見方では、公然と反旗を翻しているのは植民地人の中でも少数派であり、イギリス軍の力を見せつければ崩壊してしまうというものであったが、これが壊された。彼は本国のジョージ・ジャーメインに報告書を送り、19,000名の増援を要請し、更に予告を付け加えた:「増派依頼が叶わなければ、この戦争はイギリスが心の病にかかるまでストレスでやられてしまうかもしれない」
[編集] ニューヨークの戦い
1775年10月10日ゲージ中将に代わって大陸派遣軍の総司令官となった。この年ナイトにも叙せられウィリアム卿となっている。1776年の4月、任務は永世のものとなったが、カナダ駐在軍はガイ・カールトン将軍の指揮下になった。ハウはその年の夏、ロングアイランドの戦いでジョージ・ワシントンを破った。また、9月には、スパイの容疑でナサン・ヘイルの処刑を命じた。
1777年、彼は任務を捨てるという運命の決断をしてしまった。その任務はサラトガ方面作戦とよばれ、ニューヨークから北ヘ進みハドソン川下流域を手に入れて、カナダから侵攻するジョン・バーゴイン将軍と落ち合うというものだった。この決断のためにバーゴインとその軍隊が捕虜となった。その代償としてハウはワシントンを追ってフィラデルフィアに向かい、戦いに勝ってフィラデルフィア市を占領したがワシントンは逃げおおせた。この大陸軍のサラトガでの勝利に刺激されてフランスが大陸軍の側で戦争に参入した。
[編集] 独立戦争後
ハウは1778年に辞職し、ヘンリー・クリントンが北アメリカ派遣軍の総司令官を継いだ。
ハウはイギリスに戻り、1782年枢密院顧問となった。兄のリチャードが1799年に亡くなると、侯爵家を継いだ。1814年にプリマスの知事として死亡、トゥィッケナムのホーリーロードに葬られた。